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25歳の、長い雑記

昼過ぎ、カフェでサンドイッチを頬張っていると、前の席に親子連れが座った。

幼稚園年中か年長くらいの男の子と、そのお母さん。
そのお母さんが、男の子のリュックからごそごそと、男の子がどこかで作ってきた作品たちを取り出していく。

一つ目は、ビニール袋のような透明な球体の下に、赤い折り紙がひらひらと貼り付けられている。赤い触手を持ったクラゲのようだ。すると、お母さんが一言。

違うでしょ、この赤いのはこの丸の中に貼り付けていくんでしょ。家に帰って作り直しね

思わず目を丸くしてしまった。なぜ、そんなことを言うのか。好きに作っていいじゃないか。

その後もダメ出しは続いた。男の子が一人真ん中にいて車に囲まれている絵では「お友達も書いた方がいい」、矢印の図形から連想して書いた絵には「これはおかしいんじゃない?他のお友達はどう書いていた?」など。
口調はそこまできつくなく、笑いながらであったし、男の子もしょげたりしていなかったけれど、私は心の中でおかしいだろ、と思っていた。

大人になっていくにつれ、否が応でも、普通の、しかしつまらない発想しかできなくなっていく。いま真っ白いキャンバスを与えられても、紙コップや折り紙を渡されても、きっとあの頃のように自由に、何かを作ることはできない。正しい完成形を知りすぎて、その枠から出ることがなかなか難しい。

だから、せめていまは、自由な型にはまらない発想を存分に発揮して、のびのびとものを作って欲しいと思うのだ。正しい完成形なんて、きっとあとでいくらでも作ることができる。

***

「ああ、それはお受験じゃないかな」と友人。

お受験。その発想はなかった。そうか、だからあのお母さんは半ば必死に、正しい形を求めていたんだ。

なんだかなあと思ってしまう。
いくらでもこれから先、空気を読み、自己を殺し、正しいとされるものに合わせていかないといけないことなんてあって。それをあの歳から強いられるなんて、悲しい世の中だと思う。けれど、だからといって「いい教育を受けさせたい」と子を思う親の気持ちもまた、軽んじてはいけない気もする。(もちろん、「いい学校」だけが全てではないけれど)

こうした、「何をもって子供のためとするか」といった難しさを目の当たりにすると、果たして将来、自分はきちんと子育てできるのだろうかと不安になる。子供にとって「いいお母さん」になれるだろうか。過干渉でも放置でもなく、甘やかしでもおせっかいでも親のエゴでもなく、子供と適切に接していくことができるだろうか。
「子育て」という未知のものに対する不安がどんどん大きくなり、どこからきているのかもわからないプレッシャーが肥大化し、「私には、無理だ」と思ってしまう。

25歳。
SNSでは、結婚生活や子育てに関する記事が多くおすすめされるような歳になった(歳のせいではなく私がそういう記事を多く見ているせいかもしれない)。周囲もちらほら結婚し、中には子供ができた友人もいる。当の私も、今月末には彼氏のご両親とお食事することになった。自分一人のことだけ考えていればよい時間は、そう長くはないかもしれない。大きな人生の変化がいささか現実的に見えてきて、少したじろいでしまう。

***

先のお母さんが、2つの紙コップの底同士を貼り付けたものを取り出した。赤い折り紙で2つヒレのようなものがつき、青い目のようなものが一つついている。「これなに?」

ヒラメ!!!」と男の子が元気に答えた。

思わず吹き出しそうになるのを堪えるのが大変だった。お母さんも、これには笑っていた。「ヒラメってもっと薄いじゃん」「えーでも目の位置でわかるでしょ」と親子は仲睦まじく会話している。

この光景は、微笑ましくて、素敵だと思った。
正しさを強いざるを得ないのだとしても、でもどうか、いまだけの発想をお母さんも楽しんで。笑って、笑って、一緒に楽しく過ごして。私も将来そういう親子になりたいよ。

子育てはおろか結婚も(就職も)まだな私は、人生というものへの不安をかき消すようにこんな余計なお世話な願いをし、いつも通り研究室へと向かった。

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