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1年半をかけて考えてきたこと

先日、2022年12月11日。初めて参加した景観・デザイン研究発表会が終了した。なんと光栄なことに、優秀講演賞を受賞した。深夜までスライド修正にお付き合い頂いた同期と先生には感謝しかない。

発表した内容は卒業論文の内容である。その詳細は、1年後に公開される景観・デザイン研究講演集のバックナンバーに譲りたい(が、発表内容とは全く異なるので、それさえ避けたい)。

さて、なぜ久しぶりのnoteを書くことにしたかというと、その卒業論文に対する問題意識が、これまでの活動の中から沸々と湧いてきたものであり、現在まで考えてきたことを含めて共有することで、感謝を伝えたいというものである。

その一方で、修論に向けて何を考えてきてこれから何を考えたいか、を整理したいという側面もある。そんなことにもお付き合い頂きたい。

それでは、一通り振り返っていこう。


卒業論文で取り組んだこと

卒業論文を一言で振り返るとどういう言葉になるのか、考えてみた。
「地域まちづくり」「市民活動」「コミュニティ論」
なんといえば良いかはわからない。

最初のきっかけは色々あるが、研究室の教授が繋がっていた埼玉県本庄市の市民グループにお繋ぎいただいたことであろうか。元々、その存在を聞いたことはあった。

また高校3年生から(違うかな?)、市民活動支援センターで学生スタッフの経験をさせて頂いたことも大きかった。

さて研究内容であるが、以下の通りである。これまで15年間の活動の実態を把握した上で、そのような活動によって会員はどのような想いを持ったのか、それらを活動の意義として把握した。

1つ分かったことは、このグループはこれまでのコミュニティや組織とは少し異なる。そのことだけ、頭に入れておいてほしい。

これまで抱えてきた問題意識

さて、問題意識に戻ろう。

一つは、昨今の住民参加の取り組みと、その過程でも頻発するワークショップである。住民参加の場以外でもワークショップは行われているが…。

本来の住民参加というものは、まちづくりや地域自治を考える住民が主体的に活動をして、行政と連携していく(協働していく)というものではないだろうか。

しかし実態はどうだろう。

ワークショップの場には、事前にどのような方向性に話を持っていくかを共有されたコーディネーター。いつもそうした場にいる見知った参加者。結論だけを持ち帰り手続きとして処理をする行政職員。そして、事後の取り組みを自身の成果にするべく補助金を使いまくる人。

少し過激かつ偏見だろうか。それでも、自分が目にしたものであって、少なくとも現実の一部である。

このような取り組みは、地域まちづくりに繋がるのだろうか?

お膳立てされたワークショップの場で、住民は「参加した」という実感だけを持ち帰って、満足してしまって良いのだろうか?そんな快感を満たすだけの作業に税金が使われてしまうとは。

こんなことを考えていた。


一方で一般論に目を向けよう。コミュニティは大きく3つに分けることができる。

一つは伝統的な住民組織である、地縁型組織だ。
町内会や自治会、商店会と聞けば想像しやすいだろう。これまでは近隣地域の整備や市報の配布など、公共サービスの一端を担ってきていたが、昨今では高齢化や担い手不足によりその繋がりが疎遠になり、弱体化してきたというのが実情であろう。

二つ目は、テーマ型組織と呼ばれる、いわゆる市民団体である。
趣味を共有していたり、特定のスポーツについて集まるサークルなどを連想してほしい。一見この組織の活性化はまちづくりにも繋がると考えられるが、地域との繋がりは強いと言えず(地域を超えた繋がりもあるだろう)、地域自治という意味では地縁型組織に劣る面がある。

三つ目は少しわかりづらいが、インターネットによるつながりを生かしたコミュニティだ。
TwitterやFacebookによる繋がりだけでなく、最近ではオンラインサロンなどの繋がりも増えてきた。これらは完全に場所の制約を超える。そのため、地域自治という意味ではその面がデメリットとなる。

このように考えると、現代社会に応じた「地域を担う主体(コミュニティと言い換えられる)のあり方」が問われているといえよう。


結論としては、伊藤雅春さんの「わたしたちA」「わたしたちB」という論考を引用して、市民活動の特徴を捉えた。

詳細は、以下の書籍とブログ記事に頼るが、概要だけ記載する。自分の勝手な解釈であるが。

まず前提として、伊藤さんは公共圏(スケールを広げた地域のような関係性)と親密圏(家族のような関係性)の間に、「コミュニティ圏」を定義している。この公共圏と親密圏を繋ぐ役割を担うものだ。

この上で、わたしたちAとは、ワークショップのような場(伊藤さんの実践ではミニ・パブリックスによる熟議の場とあるが詳細を省くため「ような」とする)での議論によって、その参加者間に信頼関係が紡がれ、広い地域の課題などを議論できるようなコミュニティ圏を形成する動きとしている。

一方で、わたしたちBとは、このワークショップのような場を通して、連帯のような関係性が生まれ、個人(もしくは親密圏)の問題を共有するコミュニティ圏が生まれ、その問題解決をするコミュニティを形成する動きとしている。

具体例で示そう。
地域の話題について議論する中で、「公共交通が使いづらくて困っている。他にも困っている人がいるのではないか?そうした議論から地域計画を策定していこう。」きっとこんな感じの議論がされるようになるのが、わたしたちAだと思う。わたしからわたしたちへの拡散、という言葉が使われる。

一方で、「最近、母親の介護をするのが大変になってきたが、本人は楽しい生活を送りたいと考えているようだ。1人で1人を看るのは大変だが、数名集まって多くの人を見守るようにできないか。」という個人の問題が共有され、その問題解決を目指す。あなたからわたしたちへの連帯、と表現された。

せっかく作ったので使ったが、参考文献に同内容が掲載されている

この「わたしたちA」「わたしたちB」のような経験を持つ人は、皆さんの中にもいるのではないだろうか。

そこで、これまでのコミュニティに照らしてみると、地縁型組織は「わたしたちA」、テーマ型組織やインターネットの繋がりは「わたしたちB」を見ることができる。

今回研究対象とした団体は、このどちらも持ち合わせていたと思う。というより無意識に混在していた。

会員は、気軽に参加することのできる定期的な活動(月例会と呼ばれる)の場で、自分の考え・最近感じたこと・他の人の意見を共有する。

その議論を通じて、各々の考えを深めていく。それぞれ感じることはあっただろう。それが「わたしたちA」のように広い地域を考える方向へと向かうこともあれば、「わたしたちB」のように特定の活動に注力する活動も生まれる。

このような緩やかな動きは、まちづくりの界隈であまり生まれてこなかったのではないか?

まちづくりの活動や市民団体といえば、ある特定の目的を達成するために組織が生まれ、その組織ごとに決められたルールのもと、活動が生まれ、目的が達成されると解散する。そんなイメージであって、緩い関係性の中で主体性を持ってそれぞれが活動する、ということは少なそうである。
(もしくは知り合いだけで馴れ合いのように活動する人たち)


地域の自治は風景を守る

少しずつ話が逸れていきそうなので、少しずつ戻していくが、このような問題意識は別の方面からも考えることができる。

それは風景の逸脱を抑制する力としての自治である。

別のnoteで書こうとしていたが、一部をここで書いておこう。

街中を歩いているときの写真かな。2021年12月。

これは地元の中心地の様子である。
この地域は景観計画が策定されている地域であり、建物規制がされている。

しかしながらデカデカと、誰が住むのかよくわからないマンションが建設されてしまった。

せっかく空が広く見える場所であるのに、北側(左手)から花火がよく見える地域であったのに、そんな想いはお構いなしだ。

さらにひどいのは、マンションへの車の出入りが裏通りからされていることだ。つまりこの道沿いに面している箇所は住宅1軒分程度である。なおさら意地が悪い。

何が言いたいかというと、この地域にはこのマンションの建設を止める力と考えがほとんど残っていないということだ。地域自治の問題は風景の問題からも考えることができるのである。

この辺りはまた別のnoteでも考えていきたい。公共性の議論にも繋がる。


今、必要なものはなんだろう

さてここまで色々なことを書いてきたが、もしかしたら「難しいことを考えていたんだなぁ」と考える人がいるかもしれない。

しかしながらその時点で「終わっている」のである。

今、その瞬間、あなたは街のことを考えることを諦め、自分にはついていくことのできない、別世界の問題だと解釈した。

しかしそんなことを考えてしまっては、自分の周りの生活は誰が担保するのか?

まさか税金を払っているんだから、政治と行政の人間がどうにかしろとでも言うのだろうか。

もう少し現実を見なければならない。


話を少し戻す。

このような中で参考になる考え方は、藤倉英世さんによる「地域の物語」の論考である。

こちらも詳細は論文に譲る。もう少ししたら書籍が発売されると聞いていて、待ち切れないが焦らずに待つ。修論が書き終わる前には読んでみたいところだが…。

(こちらが最新で、一番わかりやすいと思う)

論考の中では、4地域に起こった共通点として「存続の危機」「物語の書き換え」「公共圏的空間の創出」「ローカル・ガバナンスによる<場>の運営」という4つの契機からなる「地域の物語」の再生サイクルを提起している。

今、地域に必要なのは、この「存続の危機」を感じること、そして「物語の書き換え」を行うことだと思う。

これは簡単な話ではない。しっかりと民主主義的に進めていくものであるだろうから。

修論に向けて、この「存続の危機」を感じた地域(もしくは行政)を対象とした研究ができないか、と考えを進めている。


修論に向けて

もう終わりになるが、この卒業論文は、しっかりと研究を進めることができたか、と言われたらなんとも言い難いところがある。

つまり、研究手法や分析方法を詰めきれていないのである。

コミュニティや人と人の関係性をしっかりと記述するためには、どのような手法を用いれば良いのか。今、その勉強をしている。

取り組みが遅い、あと1年で書けるのか、と言う声が聞こえてきそうだが真っ当である。

ただ、このような問題意識の整理ができたことは、確実に自分のためになった。あと1年と少しの間、学生として実践をする中で、この経験を生かす機会はまだまだたくさんあると思う。

そんなことを考えながら、今はたくさんの本を読みたい。

いくつも積読(というよりブックマーク)状態になっているので、年末に向けて読み漁ろう。

ここまで読んでくださった方はどれくらいいるのだろうか。

皆様に育てて頂いたことに改めて感謝したい。

そして、このような話題の議論をさせて頂ければ、これほど幸せなことはない。


(追記:12/14 1:57)

ここでも同じようなことを考えていた。


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