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いま、ここにいる、わたしの頭の中

豊島にある六角堂にはたくさんの本が。向かいは本州。


「なんか、無理をしていないですよね」

ふと、この風景を見て、出てきた言葉である。
特に誰もいない。ただ畑や田んぼが広がるだけだ。

それでも、もう少し詰めれば、あと一畝くらい作れるんじゃない?というところも、無理をしない。きっと必要な分だけ作って、それを使っているのだと思う。

東京に戻ってきて、少し思った。

電車の乗り換え時間で立ち食い蕎麦を食べてみたり、エレベーターのスピードにイライラしていたり。


なぜだろう。

何かを忘れてしまったのか。


もう1つ思ったことは、「流れる時間が違う」ということだ。
よく旅行記で見る言葉だけど。

先日読んだ國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』でも、ユクスキュルの環世界が紹介されていた。

動物はその個体によって、感覚も違うので、生きている世界が違うだろう。だいたいそんな感じだ。

高松空港でビデオ撮影した、ヘリコプターのプロペラの回転の仕方と、自分の目で見たもの、でさえ違う。人の目で認識できる速度の限界は、240fpsとも言われる。



旅とは何なのか?何を求めるのか?
そんなことも考えていた。



今年も「3.11.」を迎えた。

みんな、人によっては当時の記憶がない人でも、その日になれば、当時を思い出し、心を向ける。

こんな感じで、「記憶を呼び覚ます装置」があるものは良い。


では、「記憶を呼び覚ます装置」がないものは?

例えば、長期のプロジェクトでギクシャクした人と人の関係性、「田舎で不便だ」と言われたある人の地元、今飲んでいるコーヒーの生産者のこと。

ちょっとズレるかもしれないが、これをどう捉えていくべきか。


昨年末に、『すずめの戸締り』を観た。監督は、場所を悼む物語という。

廃墟になった場所でも、かつてそこに人がいたわけですよね。いろんな喜びや悲しみがあった場所です。映画の中で、廃虚にたどりついた鈴芽が、「土地の声を聞け」と語りかけられる場面がありますが、そういうことを通して、鈴芽は「この場所には今とは違う風景があったんだ」、「かつては人の営みがあったんだ」と、人々の姿を想像していくわけですよね。場所や他者への想像力だと思います。今は人がいないから超然とした冷たい美しさになりますが、でもそこに血の通った感情があったことを鈴芽が知っていく。そういう思いを感じながら、鈴芽が東北に向かっていく物語にしたかったのです

映画「すずめの戸締まり」 新海誠監督が東日本大震災を描いたわけは」NHK


どこでも、地域の魅力を伝える、開発をする、そんなことが進められているが、いい加減(人口減少という現実を見て)場所を葬ることを考えても良いのではないかと思う。


そう、今このタイミングで、何かを思い出すことは大事なのではないかと思う。

無理やり、くっきりと区切りをつける必要はない。

ただ、人は記憶を忘れてしまうものだから、何かのきっかけに思い出し、思いを巡らせること、妄想すること、それが大事なのだと思う。

そして、生きている時間の流れ方が違う人の間でも、同じものに思いを巡らせてみてはどうだろうか。


もう少し豊かな暮らしを目指して、そんなことから始められないだろうか。

その一つが、旅なのかもしれない。


最近、すごく思うことは、自分は文章を書くことが苦手、ということだ。

多分、何かを発信する方法として、文を綴ることは適していない。

他の発信方法を考えながら、こうして言語化しきれていない内容を綴っています。

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