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実家にいた幽霊

・畳んだ日傘が焼けつくように熱い。日傘とサングラスがなくてはならない季節になった。東京の夏は年々厳しくなり、サンダル越しでもアスファルトの熱で足の裏の肉が焼けそうだ。

・まだ地元にいた頃、私は夏のひざしとは無縁で、氷室のようにひんやりとした家で過ごしていた。周りを高いアララギの生垣で囲んだ実家はいつも薄暗く、さわやかな朝日とやわらかな西日だけが差し込んだ。

・実家では深夜に突然テレビがついたり手のひらピカチュウが泣き止まなくなったりすることがままあった。その後に決まって家に大きな出来事(主に凶事)が起こっていた。らしい。まだ私は小さかったのでことの詳細は知らされていない。
・今でも洗濯機にティッシュやライターが入ったままの服が入っていると洗濯機が回らない。数年前に実家に帰った時、私はiPodを洗濯してしまったのだが、母親に「通りで洗濯機が回らないと思った」と言われた。

・両親は一連の出来事を祖父なのだと言う。父方の祖父は私が物心つく前に亡くなってしまったので、柔らかな笑顔の遺影と通夜で仏間に横になっている姿しか覚えがない。

・高校生の私は美術部で、夏休みの間はコンクールに出すために実家の二階で油絵を描いていた。学校が遠かったので通うのが面倒だったのと、時間に制約がないからだ。なので毎晩遅くまでキャンバスに向かっていた。
・ところが決まって深夜を過ぎると具合が悪くなってくる。モヤモヤとした不安感に襲われてまともに立っていられなくなるのだ。それまでコピー用紙にいくらでも絵を描いていられたのに、イーゼルを前にするとそうもいかなくなる。
・単に同じ絵を描き続けてノイローゼになっているのかと思っていたが、ある晩夕飯を食べて続きを描こうと階段を上るとキャンバスの前に黒い靄がうずくまっていた。
・私はそのまま階段を降りて両親にあるがままを唸りながら報告し、両親は私を信じてイーゼルのある部屋に盛り塩をしてくれた。

・父母は娘から見ても聡い人で、小さい頃からほん怖を本気で怖がる私を「人間の方が怖い」と一蹴するようなタイプだったので、盛り塩なんて儀式めいたことをしてくれたことに私は驚いた。
・それからその部屋で何枚か油絵を描いたが、深夜になるといたたまれなくなる気持ちになるのは変わらず、私は高校を卒業した。黒い靄は見間違いだったのか、それから見たことはない。

・という一連の話をこの間人にした。
・「それはおじいちゃんがあまり根を詰めないで寝ろって言っていたんだよ。孫がどんな絵を描いているのかじっくり見たかったんじゃないかな」
・たしかにあの一連の流れからすると、あれは祖父だったのかもしれない。盛り塩なんかして申しわけなかった。孫はビビリなのだ。怖がらせたのかと思ったのかもしれない。

・実家を離れ、しばらくして私は絵を描かなくなった。東京の冷え過ぎる冷房に凍えながら、私はアララギの生垣に囲まれた実家のことを思い出している。東京の夏は暑すぎる。

2019.08.06
#日記

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