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彗星列車のベルが鳴る 自己解釈

こんにちは。金平糖です。

今回はAfter the Rainさんの楽曲「彗星列車のベルが鳴る」の自己解釈をしていこうと思います。

この楽曲は、2016年の8月に投稿された曲で、YouTubeの動画の概要欄には、「1st album、両国国技館のライブを記念して作った一曲です」とありますね。

なので、一応、ライブを記念して作った楽曲ということも念頭に置きながら、曲の解釈をしていこうと思います。

それでは、どうぞ。

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『世界は君を連れ去る』

「さよならの台詞もなく 最後のページだ
 もう列車のベルが鳴る」

さよならの台詞もなく、最後のページを迎えてしまった。

このような歌詞から、「彗星列車のベルが鳴る」は、「アイスリープウェル」と同じように、愛する人との死別の場面が描かれていると考えられます。

あるいは、ライブを記念して作った一曲ということで、「ライブが終わって帰ってしまうファンの人たちとの別れ」を「愛する人との別れ」に重ね合わせていたりするのかもしれませんね。

列車のベルが鳴る=列車の出発の合図が鳴る、という意味になりますので、ここでは、愛する人とのお別れがもうすぐそこまで迫ってきている、ということを描写しているのだと思います。

ここで少し、タイトルの「彗星列車」の意味を考えていきましょう。

例えば、地上から空を流れる彗星を見たとき、そこからはどのような景色が見えるでしょうか?

恐らく多くの方が、夜明け近くの薄暗い空を、彗星が尾を引きながらゆっくりと遠ざかっていく、そのような情景を想像するのではないかと思います。

「ゆっくりと遠ざかっていく」とは書きましたが、実際の彗星はものすごいスピードで空を流れているわけです。しかし、地上からそれを見ると、あまりにも空が広大すぎるため、とてもゆっくり動いて見えるのですね。

そして、これは「空を走る列車」という情景にもピッタリと当てはまるのではないでしょうか。

愛する人を乗せた列車がその輝きをぼんやりと薄れさせながら、自分の手の届かない空の向こうへと段々と遠ざかって、小さくなっていく。
そして、自分はそれを地上で眺めていることしかできません。

このような情景を、まふまふさんは空を流れていく彗星に例えて、「彗星列車」という名前を付けたのではないでしょうか。 


さて、タイトルの意味をざっくりと推察したところで、歌詞の解釈に戻ります。


「この夜空で輝いた星も 晴天の空では見落とすように 「幸せ」では「幸せだ」と気づかなくなっていた」

「そんな他愛のない日々が この指の隙間 零れ落ちた」 

ところで、まふまふさんの「夢のまた夢」という曲では「闇夜ほど星が綺麗なこと ねえ 知ってる?」という歌詞が、また、「世界を変える一つのノウハウ」という曲では、「暗く沈みきった夜空が 欠けた星も綺麗にする」という歌詞が、それぞれ曲中に出てきていますよね。

当然ですが、晴れた空の下では、星があることに気づくことはできません。
星は夜空という暗い闇があってこそ、綺麗に輝くことができるのです。

また話は変わりますが、まふまふさんは、過去にとても辛い経験をされています。

それを肯定するわけではないのですが、そんな「暗闇の世界」のなかでこそ、「好きな人と過ごすありふれた日常」や、「普通の幸せ」などが、一際綺麗に輝いて見えていたという側面があったのではないでしょうか。

その後、まふまふさんはそらるさんや色々な方のおかげで、「暗い世界」から抜け出すことができ、いわば「明るい世界」へと戻ってきました。

暗い世界では一際輝いて見えていた「幸せ」も、それが日常になっていくことで、その輝きが段々と薄れていってしまい、いつの間にか「幸せでは幸せだと気づかなくなっていた」ということがあったのかもしれませんね。

歌詞の解釈に戻ります。

つまり、ここの歌詞では、「晴天の空では輝く星を見落としてしまうように、愛する人と一緒にいられる幸せが当たり前になっていくことで、それがどれだけ幸せなことであるかに気付かなくなっていた」ということを言っているのだと思います。

また、これを逆に言えば、「一緒に過ごす時間が当たり前になるほどに、愛する人と長い時間を過ごしてきた」ということですね。

「そんな他愛のない日々が この指の隙間 零れ落ちた」、まふまふさんらしいとても綺麗な表現の歌詞だと思います。

まふまふさんが作詞・作曲をされた「四季折々に揺蕩いて」という別の楽曲では、
「あやすように伽してくれた夜は 掬えども指の隙間を するり溶けていく」という歌詞がありますが、これと似たような意味になるのでしょうか。

他愛のない日々が無くなってしまった、という歌詞からも、愛する人が亡くなってしまったことが伺えます。

前の歌詞にも繋がってきますが、きっと愛する人がいなくなってしまったことで、その人と過ごす日常が、どれだけ幸せなことであったのかに気づいたのでしょうね。

「終点も無いような 果てしない闇の向こう 彗星の列車で もう君は帰る 行く宛もなく」

彗星の列車に乗った愛する人が、空の向こう側へ、自分がもといた場所へと帰っていくという描写ですね。

一般的に、彗星がよく見られるのは明け方近くの薄暗い空が多いといわれています。

しかし、実際には、彗星は地上からは見えなくなったあとも、薄暗い空のずっとずっと向こう側へと、地上の誰もが知らないような深い暗闇の向こう側へと旅をしていくのです。

その行き先は誰にも分からないですし、そもそもの話、「空」というものには、果てという概念が存在しません。
(まふまふさんの「鏡花水月」という楽曲にも「君と見ていた空は何処まで続くの?」という歌詞がありますね。)

そういった性質から、まふまふさんは宛もなく空を走っていく列車の行く先を、「終点もないような果てしない闇の向こう」という言葉で表現したのではないでしょうか。

また、このような表現は、「人の死」についても当てはまることですね。

まふまふさんが、「終点」という楽曲で、「人の死」を「果てしない暗闇」という言葉に例えたように、この歌詞でも、「死んでしまった愛する人の行く先」として、「終点もないような果てしない闇の向こう」という表現がされているのかもしれません。

「一度脈打ったら この気持ちだって止まってくれやしないのに 言いそびれた言葉も あの夏の空の向こう側」

ここで初めて分かることですが、そばにいるのが当たり前になるほどに長く一緒にいたのにも関わらず、相手への気持ちは自分の片思いだったのですね。

「一度脈打ったら、この気持ちだって止まってくれやしないのに」という歌詞ですが、愛する人を乗せた列車が、空へと向かう途中に決して止まることがないのと同じように、自分の相手に対する気持ちだって、もう止まってくれることはないのに。ということを言っているのではないかと思います。

「自分の恋心だってもう止まってくれはしないのに、どうして君は行ってしまうの。」という少し拗ねた表現というか、何となく子供っぽい表現という感じがしますね。

また、「言いそびれた言葉も あの夏の空の向こう側」という歌詞から、もしかしたら、夏に相手に気持ちを伝えようとしたことがあったのかもしれません。

もしくは、相手に恋をしたのが、夏の出来事だったということでしょうか。

しかし、「言いそびれた」とありますので、結局は相手に気持ちを伝えることができないまま、愛する人と死別してしまったのではないかと考えられます。

「世界中の星を集めても 霞んでしまうくらい 君は綺麗だ」

「羽のように 眠るように 寝息も立てずに」

片思いをしていた人は、たとえ世界中の星を集めたとしても、逆にその星たちの輝きが霞んでしまうほどに、とても綺麗な人だったのですね。

羽のイメージは人それぞれだと思いますが、この場合は、ふわりとした、軽い、というようなイメージが適しているのでしょうか。

羽のように軽く、まるで眠っているように。「眠るように」という比喩の言葉が出てくるという時点で、その人は眠っているように見えて、実際には眠っているわけではない、ということになります。

さらに、「寝息も立てずに」という歌詞から、微かな寝息すら立てずに目を閉じている様子、つまりは、相手が死んでいるということを描写しているのだと思います


「「夕陽が落ちるまで遊ぼう?」足跡がひとつ 立ち止まった」

イメージとしては、夕方に、二人で並んで歩いているような感じでしょうか。
自分は相手に「日が暮れるまで遊ぼう?」と問いかけているのですが、なぜか相手は立ち止まってしまいます。

これは夢のなかの景色なのでしょうか。
それとも回想なのでしょうか。

夢のなかの景色であれば、「相手が死んだこと」を描写しており、回想なのであれば「片方が先に大人になってしまったこと」を描写していると考えられますが、これに関しては、はっきりとは分かりません。
この後の歌詞を考えると、どちらもありうるのではないかと個人的には思います。


「君をまだ好きしてる あの夏の向こうで何回だって恋している こんな子供じみた気持ちのままだ」

「「はい」も「いいえ」も無い でも御伽話みたいなワンフレームを望んでは止まないような 弱虫なボクでごめんね」

(理由は後で解説しますが)ここの部分は、相手が死んでしまった後というより、相手がまだ生きているときのことを描写しているように感じますね。

実は、まふまふさんの書かれる恋の歌というのは、夏の話であることが多いのです。

「鏡花水月」「夢のまた夢」「恋と微炭酸ソーダ」「年に一夜の恋模様」「君色々移り」「快晴のバスに乗る」「花吹雪」「それは恋の終わり」「夜空のクレヨン」などなど・・・。

まふまふさん本人も「夏は曲にするくらい、思い出に溢れている」と仰っていましたし、きっとまふまふさんにとって、夏というのは特別な季節なのでしょう。

話が逸れてしまいました。曲の解釈に戻ります。

「君をまだ好きしてる あの夏の向こうで何回だって恋している こんな子供じみた気持ちのままだ」という歌詞ですが、
「君をまだ好きでいること」を「子供じみた気持ち」、と表現していることから、何らかの理由で相手への気持ちを忘れようとしている、または諦めようとしている、ということが分かります。

例えばの話なのですが、想いを伝えられないまま、自分の愛する人が死んでしまったとき、その人をまだ好きでいることを、「こんな子供じみた気持ちのままだ」という、否定的な言葉で表現するでしょうか。

恐らくなのですが、普通は「君にちゃんと気持ちを伝えればよかった」という「後悔」が先に出てくるのではないかと思います。

文脈から考えても、死んでしまった相手への恋愛感情を忘れることが、大人になるということである、というのは、若干繋がりにくいというか、不自然な感じがしますよね。

このような理由から、この部分は相手が死んでしまう前の生前の描写である可能性が高いと考えられます。

さて、先ほどの歌詞で、「相手が先に大人になってしまったこと」を表現しているのではないか、という解釈をしました。

このことから、「こんな子供じみた気持ちのままだ」という歌詞は、先に大人になってしまった「君」と一緒にいるためには、「ボク」も大人にならなければいけなかった、自分の恋心を無理矢理にでも捨てなければいけなかった、そのようなことを言っていると考えられるのではないでしょうか。

ですが結局、そうやって大人になったフリをしても、心の中では君への気持ちを捨てられずにいる、ずっと君を好きなままでいる、ということを言っていますね。

相手への恋愛感情が「子供じみた気持ち」という言葉で表現されるのは、なかなか珍しいことだと思うのですが、きっとまふまふさんにとっては、それが自分の「恋心」というものをを表現するうえで、一番適していた言葉だったのでしょう。

(少し動画の話をしますが)
「彗星列車のベルが鳴る」のMVには、少女と少年がそれぞれ出てきており、どちらかというと少女は少年よりも大人っぽい印象、少年は少女よりも若干幼げな印象を受けますよね。

まふまふさんの実体験が動画に反映されているとしたら、もしかしたら恋をした相手が年上の方、もしくは精神的に大人びた方であった、ということを暗示しているのかもしれません。

そう考えると、「こんな子供じみた気持ちのままだ」という表現も、どこかピッタリと当てはまってくるのではないでしょうか。

また、「はいもいいえも無い でも御伽話みたいなワンフレームを望んでは止まないような 弱虫なボクでごめんね」という歌詞ですが、「はいもいいえもない」とは、相手からの回答がないということ、つまり、相手に自分の想いを伝える気がないということです。

それにも関わらず、「御伽噺みたいなワンフレームを望んでは止まないような」ということは、「君に想いを伝える勇気もないくせに、まるで御伽噺のような、ふたりが結ばれて幸せになるような、そんな一場面を望んでしまう、こんな弱虫なボクでごめんね。」ということを言っているのではないかと思います。

「静けさを溶かして 朝焼けもまだ見ぬ空に 鐘は鳴る」

場面はまた、相手が死んでしまったときに戻ります。

愛する人がいなくなった静けさを溶かすようにして、朝焼けもまだ出ていないような薄暗い空に、死者を乗せた列車の鐘(ベル)が鳴るという描写です。

この曲の最初では「もう列車のベルが鳴る」という歌詞がありましたが、ここでは今まさに、鐘が鳴ったという表現がされていますので、いよいよ愛する人が空へと旅立っていく出発の合図が鳴ってしまった、ということを表現しているのではないでしょうか。

「「もう帰らなきゃ」ぽつり 夢が覚めていく いかないでよ」

「夢が覚めていく」、ここはシンプルに、相手と過ごした楽しい時間のことを「まるで夢のような時間」という言葉に例えているのだと思います。つまり、「夢が覚めていく」とは、相手との楽しい時間が終わってしまうということですね。

それが分かっているからこそ、「いかないでよ」という言葉が出てきたのではないでしょうか。

「終点も無いような 果てしない闇の向こう 彗星の列車でもう君は還る 行く宛もなく」

一番目と同じかと思いきや、「もう君は「還る」」というふうにサラッと歌詞が変化しているところがポイントですね。

「還る」、つまりは空に還ってしまう、存在がなくなってしまうということだと思います。

「一度脈打ったら この気持ちだって止まってくれやしないのに もうこの手を離したら 彗星が尾を引いたら 言いそびれた言葉もあの夏の空の向こう側」

「もうこの手を離したら」、何となくですが、旅立とうとする相手の手を、列車の間から、手を伸ばして必死に掴んで引き留めているようなイメージが湧いてきますね。

今握っている相手の手を離してしまえば、本当のお別れがやって来てしまう、ここの歌詞は、アイスリープウェルの「現実感がないまま 君の手を離す お別れのベルが鳴っている」という部分とも繋がってくるのかなと思います。

また、彗星が尾を引くということは、空を流れていくということですよね。

ここでは、彗星=列車という解釈をしていますので、「彗星が尾を引いたら」という歌詞は、同時に「列車が出発してしまったら」という意味に取れると思います。

つまり、愛する人を乗せた列車が一度空へと旅立ってしまえば、もう二度と会うことはできない、そのようなことを言っているのではないでしょうか。

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いかがでしたでしょうか?

ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。
自分の感じたことを色々と書いていたら、こんなに長くなってしまいました。

まとめると、この「彗星列車のベルが鳴る」という楽曲は、「好きだという気持ちを伝えられないまま、相手がいなくなってしまう」ことを書いた曲ではないか、ということが言いたかったのです。

個人的にですが、まふまふさんはとても死生観の強い方でいらっしゃいますので、もし大事な人ができたとしたら、その方が死んでしまったときのことを真っ先に考えてしまいそうだな、と思ってしまいます。

また、この楽曲は、まふまふさん本人が「色々と考えて歌詞を書いた」と仰っていましたので、このブログを見た方も、色々と曲の意味を考えたりしてみると楽しいのではないかな〜と思います。ぜひ色々と考えてみてください。

それでは、また次の曲の解釈でお会いしましょう。

閲覧ありがとうございました。

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