ナブナさんのはなし

とんでもない文章がとびこんできた。
いつか書き留めようと思っていたことを今書き留めなければと思うくらいに、私にとってとんでもなかった。
かくしかさんのこの文章だ。

タイトルと書き出し部分からこれはもしやと察していた、けれど。その予感は、半分当たって半分外れた。
自分でも何を言っているのかよくわからないが、この記事を読むくらいならかくしかさんの文章を読んでほしい。

拝啓

今の私はナブナさんが好きだ。

自分からボーカロイド音楽に触れ始めたとき、透明エレジーとウミユリ海底譚に手を引かれ、心を惹かれて、「ナブナ」という作り手を知った。

余談になるが、その頃の私はボーカロイド音楽が作られる仕組みがよく分かっていなかったので、一時期「エレジー」とついている「愛迷エレジー」と「透明エレジー」は同一作者の作品だと思い込んでいた。今思えばなんでだよとツッコミを入れるところだが、当時はそう思っていた(少し経ってから自力で気づく)。

さておき、YouTubeでボーカロイド音楽を聴くことが楽しくなった私は、次にCDを買うようになった。初めて買ったCDはメカクシティデイズとメカクシティレコーズで、その後ほどなくして購入したひとつが「花と水飴、最終電車」だ。

「カーテンコールが止む前に」は同人盤だったから、ナブナさんのメジャー1stアルバムということになる。発売から半年(下手すれば一年)ほど経った頃に購入した。

当時はまだまだ遊んでいられたから、このアルバムといっしょに毎日の宿題を片付けていた。
母は私が「ボーカロイドの音楽」を聴き始めたことに寛容だったから、車のオーディオに読み込ませて1曲目を流したら、「最初のピアノはきれいだね」 と言ったあと、「その後はうるさくなっちゃうけど」と笑っていた。
基本的に人間の歌声が好きな母だが、ボーカロイドに肯定的というか、私がボーカロイドを好きになることを否定したことは一度もない。ありがたい。

話が逸れたので戻る。

「花と水飴、最終電車」はたぶん、「通して聴くとおもしろい」といわれるアルバムだと思う。

私だってはじめは「透明エレジー」も「ウミユリ海底譚」もある、「夜明けと蛍」もあるのかと手に取った。動画で投稿されている曲が「アルバムの中に散らばった状態」だ。

アルバムを聴き終えたらそれがひっくり返っていた。

スタート時点で散らばっていた曲たちが作者の意図により改めて順序だてて提供され、始めから終わりまでがすーっと繋がると、聴き終えたあとになんとも心地よい余韻をもたらしてくれる。

正直このアルバムのせいで、「アルバムは順番に聴くものだ」と思うようになった。今でもきっと、根っこみたいなところでじわじわ染み込み続けていると思う。
サイトで繰り返し聴いた曲が、アルバムを順に追うと見せてくれる、知らない表情に釘付けになった。

ナブナさんから受けた影響は大きい。
私がまだ気づいていないところにまで及んでいそうだ。

本を開いて自分がいない世界を覗くみたいに、ナブナさんの曲を聴いていた。
それは今も変わらない。でも、昔より知っている「好きな曲」が増えたから、本を開く回数は確実に減っている。
何度も読んだ本みたいな「花と水飴、最終電車」を、これからの私がどう思うのかなんてわからない。

好きになっていった当時はどうして好きになったのか上手く説明できなかったが、最近やっと分かった気がした。ナブナさんの映しだす世界が好きなんだと思う。
同じ世界を生きているのに、切り取り方次第でこんなに心惹かれるように映しとってしまうのか、と。

……でも歌詞や映像から世界観考察をするのは他人に任せておきたい。視界に入ってかつ気が向いたら読む程度でいい。今のところ、そこを掘り下げることに特別興味がない気がしている。ひとつに決めずにふわふわあそばせておきたいのかもしれない。
響いたことばの組み合わせを、ころころあめだまを転がすみたいにのんびりそのまま楽しんでいたい。
だからあるとき、ナブナ好きの友人に「メリューは自殺の歌だよね」と言われてめんたまをひんむいたことがある。いやえっあのどういうこと?


そんなことに気づきかけながら、カーテンコールが止む前に月の上を歩いて、邪魔な夏草を掻き分けて、負け犬の遠吠えを聴いてきた。
今度大きい店に行ったら、万年筆をみてみたい。

ふたつのエレジーを聴いていたころより知ってる音楽も増えて、好きな曲にも出会っていったけど、変わらず私はナブナさんが好きだ。

でも好きは扱いづらくて、来るときが来ればはちきれてしぼんでしまうから、みんないつなくしてしまうかわからない。

その時が来たなら、遠くから活躍を見守り、ひそかに応援する人になりたいと思う。それなら私にもできる。

敬具