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RUN&ついでの自由学習-豊洲と東京湾埋め立ての変遷篇-

走った日 2月13日
走った距離 11km (雨で寒かったからね)

仲間と一緒に『豊洲ぐるり公園』を走る日でした。 ここは、よくみんなで走る場所です。
集合場所までは、東京メトロ有楽町線の豊洲駅からゆりかもめで一駅のった新豊洲が最寄りです。 私は東京メトロ東西線沿線に住んでいるので、門前仲町で都営大江戸線に乗り換えて一駅乗った月島で有楽町線に乗り換えて一駅だけのって豊洲、そこからゆりかもめでまたまた一駅(まあ、ここはたいてい歩くけど)というふうに、一駅ずつこまめに乗り換えて、運賃は無駄にかかる。 いつもむなしい思いをしていました。

そこでその日は、大江戸線をもう一駅乗って勝どきまで。 そこから走って(or 歩いて)集合場所に向かうことにしました。

勝どきから晴海通りを、まず黎明橋を渡って朝潮運河を超えて晴海、そこから晴海大橋を渡る(晴海運河)と、行き先の豊洲を広く眼前に見下ろす感じになります。 築地から移転した大きな市場、高層ビル、向こう側の運河にかかる橋、橋、橋。

眼下に広く景色をとらえ、同時に手元では、アプリが示す自分の軌跡を眺めながら、いつからこの地面はあるんだろう❓などと思い始めました。

豊洲マップ

で、調べました。

江戸時代よりも前は、今の中央区や江東区の大部分は海だったみたいです。

徳川家康は江戸にはいるとすぐに、新橋から日本橋浜町のあたりまで、それに、今の江東区の深川あたりの埋め立てを始めたんですって。

佃島、月島、勝どきあたりが埋め立てられたのが江戸末期から明治にかけて。これは東京湾の浚渫工事で発生した土砂で埋め立てられたんだそうな。 ちなみに浚渫工事というのは、船が安全に運航できるように、海底や川底を整備する工事のことらしい、知らんけど(笑)

そしてやっと豊洲。 半島みたいに突き出ている部分(豊洲ぐるり公園が囲んでいる、ちょうど走った軌跡があるあたり)と、その北東に位置する付け根みたいな台形の形の部分があるけど、付け根の部分が埋め立てられたのは、関東大震災の瓦礫処理だとか。 そして、半島みたいな部分が加わって、ふ頭もできて、というふうにこの豊洲が拡張したのは高度経済成長の時期。 東京港の強化と、そのころはもう東京の人口が増えまくって、住宅の確保とか廃棄物処理とか、そういうことで、江東区がどんどん広くなっていったわけね。

こうしてみると、埋め立て地っていうのは、必ずしも土地を広げるためというのではなくて、できちゃった土砂や瓦礫の後始末ということもあったわけですね。

ランニングが趣味になってから、河川敷とか土手とかを走って、川というものに興味が出てきて、ふとしたことで調べたりするけれど、今、何気に「〇〇川」などと呼んでいるのは、人の手でつくられたものがけっこう多い。 運河とか放水路とか、水害から人々を守るためだったり、水上交通の整備のためだったり。 そういうのを、徳川幕府はすっごくやっていた。 そして今回、陸も然りだな、と改めて思った次第。

今みたいにクレーンもなければ技術もない、ITなんてとんでもない(笑) 
そんなとこで測量して土を運んだり掘ったり、すごいことだとものすごく思う今日この頃です。

おまけは、手書きで汚いけれど、埋め立て地と地名を整理したもの。 豊洲はFの部分。 もともと海だったところ(だから洲)を埋め立てながら、豊かになりますようにという願いを込めて。 いい得て妙な名前だなあなどと。

地図

A 佃 (元々の石川島と佃島。 それぞれの島の名前の謂れは別の機会に)
B 月島(もんじゃの街)
C 勝どき (勝どき橋を渡れば築地、そしてすぐ銀座)
D 豊海(「とよみ」と読みます)
E 晴海(「はるみ」お台場の前はここが国際見本市会場)
ここまでは中央区。 そして次から江東区。
F 豊洲 (走った場所。 今回の自由勉強のきっかけになった)
G 東雲(「しののめ」と読みます)
H 有明(お台場とかテニスの森とか国際展示場とか)
J 青海(「あおみ」と読みます)
尚、Iがないのは、不注意で抜かしただけです。

ちなみに、先の埋め立ての歴史は以下を参考にしました。

しょーもない記事、読んでくださってありがとうございました。

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