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神田川・秘密発見の旅 後編16 伊達騒動の真相に迫る・・・神田川普請から見た伊達騒動

後編16 伊達騒動の真相に迫る・・神田川普請から見た伊達騒動

 さて、ここまで長々と綱宗の行動記録を紹介したには訳がある。
 小石川普請の下命を受けてからの綱宗はかなりの頻度で公務に追われている(前回で紹介済み)。遂には「登城してこなくて良いから、普請に専念せよ」と言う老中からの命令まで受けていて、此の工事が幕府にとっても仙台藩にとっても失敗が許されない、面目と威信をかけた紛う方ない大工事であったことがうかがえる。

 7月18日、伊達綱宗は幕府より逼塞を命じられた。
 万治3(1660)年のことであった。厳有院殿御實紀によると、この日は朝方は晴れていたが午後から曇り、やがて雨となった。
 綱宗は幕命を受けた1週間後の26日、品川大井の屋敷に移り、逼塞した。
万治元年9月3日に忠宗から治世を引き継ぎ、この日をもって綱宗の治世は終わった。19才から21才までの1年10ヶ月の間のことで、その間、許されて国本・仙台に帰ったのは一度だけだった。

 小石川普請に休む間もなく動いていた綱宗は、なぜ逼塞を命じられることになったのか、酒井雅楽頭と伊達宗勝との陰謀説など諸説あって、本当の理由はどうもハッキリしていないようだが、綱宗逼塞の幕命が下った7月18日前後の幕府要人や仙台藩幹部の動きは以下のようだった。(柳営日次記)

 7月18日、老中酒井雅楽頭忠清の屋敷に立花飛騨守忠茂・伊達兵部大輔宗勝・大条兵庫宗頼・片倉小十郎景長・茂庭周防定元・原田甲斐宗補が招かれ、老中阿部豊後守忠秋・稲葉美濃守正則が列座の上、忠清から上意が下された。
 一、伊達綱宗は逼塞すべきこと
 一、跡目については追って仰せださるべきこと
 一、堀普請は引き続き相勤めるべきこと

 ここにいう立花忠茂は、忠宗の長女鍋姫の嫁ぎ先、柳川藩藩主。綱宗とは義兄弟にあたる。原田甲斐はやがて伊達騒動の中心人物となる人。伊達宗勝もまたお家騒動の中心人物になる。
 此の沙汰が出る直前の7月15日、伊達安芸守宗重(涌谷領主、後に伊達騒動の主役の一人となり、酒井忠清邸の控室で原田甲斐に斬り殺される)、伊達弾正宗敏(岩出山初代領主、綱宗の後継にただ一人宗勝を推薦した人物)の両名が急遽江戸に来て茂庭周防と普請小屋で密会し、国本から持参した連判状を渡した。
 茂庭は連判状を伊達兵部宗勝に手渡し、翌16日に伊達兵部、茂庭安芸、伊達宗敏は同道してして立花飛騨を訪れ、連判状を立花に渡している。連判状を受け取った立花飛騨は伊達兵部を同道して17日、これを幕府に提出したのだった。

 連判状(願書)には「陸奥守は病気で政務が行えない状態にあり、幕府に長くお支えしたいのは山々だが、国の仕置きなど恙無く執り行えない状態で、国政は覚束ない。若君は幼少ではあるが二歳になっており、これに藩主を相続させ、陸奥守は隠居させてもらいたい」という趣旨であった。
 署名者は伊達宗敏を筆頭に一門の14名。伊達安芸、奥山大学、茂庭周防、片倉小十郎、大条兵庫などが名を連ね、原田甲斐も連署している。宛先は立花飛騨守と伊達兵部大輔となっている。
 連判状の宛先になった二人は藩の一門衆が連署してきた願書を
「こんな連判状が出ておりますので何卒よしなに」と老中に訴え出たのだった。
それが17日。幕命が下されたのは18日。

 根回し、と言うのは日本独特の制度だが、此のスピード決済はよほど上手に根回しされたと思う速さである。こういう訴状を早く出したほうがいいよ、と茂庭周防に耳打ちしたのは将軍の側用人久世大和守広之だったと(茂庭家記録)いう。その理由は綱宗の素行不良(遊興)だったとされている。伊達家の重臣が諌めても綱宗の遊興は止まらず、酒井雅楽頭までが諫言したが聞く耳持たずで、江戸では綱宗の遊興が巷の噂にもなっていたと言う。

小石川普請仮こやの置かれた吉祥寺

 小石川普請中は吉祥寺の仮本小屋に顔を出し、しばらくすると遊郭(引越し前の吉原)に繰り出したと言う記事も見える。また、水戸殿、尾張殿、紀伊宰相殿、阿部豊後守が申すには陸奥守は日頃から無沙汰があった、と。

伊達騒動はどう展開していくのか・・・?
目が離せなくなってきたが、神田川の工事は粛々と進んでいく。
その不思議!

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