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神田川・秘密発見の旅 後編20 神田川第二次工事の総工費を計算してみた

後編20 神田川第二次工事総工費を計算してみた

 普請に関わる全ての費用を算定したかったが、根拠になる十分な資料が見つからず、宿題となってしまった。とりあえず東京市史稿・市街編第7に表記されている金額を転載しておきたい。

金・1分判16万3816切れ(小判換算4万9504両・現代換算50億円~60億円)。この金額が工事費の全てであったか、一部であったのか確認できていない。

投下された人足と役職者は併せて約4000人、工事日数は285日
開始(万治3年5月19日)、終了(万治4年3月5日)まで。
この手間賃と食事代は人件費の安い時代とはいえ、大変な額になっただろう。
工事は毎日、日の出から夕方7ツ半(5時)まで。

 工事の幅(長さ)は1・4キロ。
石垣工事、川底の浚渫工事、船着場工事などが大変だっただけでなく、幕府関係者への付け届け、ご機嫌伺い、工事資材・諸道具類の調達受け入れなどなど。

 おそらく第一期工事の費用(約25億円)を上回る出費だったことは間違いない。とりあえず、仙台藩の財政事情を次節に書き出し、政宗以来のお手伝い普請が藩財政に与えたダメージを推測してみる。

「仙台堀」の歴史をここまで辿ってみて、工事は何回かに分けて実施されていることが分かってくる。その理由は図説「江戸・東京の川と水辺の事典」の解説がわかりやすい。少し長いが引用したい。

「江戸時代になってから幕府という政治権力の所在地としての江戸城と、それを経済的に支える都市づくりの過程でさまざまなスタイルの人工河川が生まれている。・・・もっとも特徴的なものは江戸城を巡る軍事的な施設ーー城郭の一部としての濠とそれに連なる堀川がある。
 この時期の自然改造や建設工事の特徴は・・・何回もの小刻みの工事を重ねて完成させていることである。これは技術力の限界という面もあったけれども、当時の自然改造というものは自然を征服するものではなく「自然」と「妥協」する方法を求めて、試行錯誤を重ねながら付き合うものだったことによる。・・・このことは「自然」を加工した場合、ある年月を経過させて新しい地盤や地形を安定化させないと、次の工事に取り掛かれなかったという事情によるものだった。・・・(これは)当時の土木・建築の方法だった・・・江戸以外の地方でも治山治水工事のほとんどが、小刻みの工事で「自然」がどのように反応するかを確認しながら大規模な範囲まで拡大している例が多い」

 また、同書では幕府は地方の大・小名にお手伝い普請、いわゆる天下普請を命じているが、各藩の財政を見ながら適度のインターバルをとって命令を下していて、絶妙なタイミングで大名に出費をさせていると論じている。ただ締め上げるだけでは遺恨を残し「窮鼠猫を噛む」の例え、反乱に及ぶリスクが発生する。それを上手に避けながらタイムリーに支出をさせ、藩財政に余裕を持たせないという支配のノウハウだった、と解説している。

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