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神田川・秘密発見の旅 後編8 政宗は江戸城高知期・神田川開鑿を立て続けの請け負った

後編8 伊達政宗の忠誠心は本物だ!

 寛永6年(1629年)2月26日、
「江戸御城廻リ所々壁等御普請御町場相渡サル」(伊達治家記録巻三十五巻)
政宗の請け取り町場は屋敷に近い便利な場所であったので、礼状を土井利勝、内藤外記に進送し、「3月朔日ヨリ御普請之義ニ候得共名代之者人足以下近日為相上申ベキ候」と申し渡している。

 記録を読み進むと、
命令を受けてすぐの3月3日、江戸城廻り普請の名代、副使として上府した伊達安芸守定宗と茂庭周防守良綱とが大御所(秀忠)へ「御目見仰せ付けられた」(同上)この言上の後、在府していた2代藩主伊達忠宗を責任者として、古内主膳広重、津田近江頼康、古内喜兵衛義重、鴇田次郎右衛門周如、佐瀬七兵衛永清らが普請奉行に当てられている。

 工事の顛末は以下の通り。
6月11日 日比谷ニ升形完成
6月15日 芝口除去普請
6月17日 芝口升形成就 
6月20日 山ノ手御堀石垣落成
6月22日 江戸四股去除普請成就 同日 芝口各割リ付ケノ去除普請開始
    (24日成就)
6月26日 普請場山下橋二秀忠出御
6月28日 山下橋ノ土橋成就
7月4日 芝口去除普請成就

政宗63歳の時であった。
この顛末は伊達秘鑑にも同じ記載がある。
 政宗は寛永6年、寛永8年と続けてお手伝い普請を願い出ているが、その前の元和6年(1620年)には仙台堀の第一次開削工事を請け負っているし、さらにその6年前、慶長16年(1611年)3月にも秀忠の命を受けて江戸城西の丸工事を請け負っている。
 寛永8(1631)年の工事について伊達秘鑑・巻三十五は詳しい内容に触れていないが、概ね以下のような進行であった。
「江戸御城所々石垣惣堀等ノ御普請、諸大名町場請取夥シ。政宗普請場ハ御門数寄屋橋御門枡形石垣等也。國本ヨリ足軽ノ者。並人夫数千人相登セ。物頭諸役人諸侍二百人餘相詰メ。奉行ニハ伊達武蔵守宗俊・伊達安芸守定宗・片倉小十郎重綱ナリ。諸大名何レモ国々ヨリ人夫ヲ登セケリ」(伊達秘鑑・巻三十五)

 仙台藩がとったお手伝い普請の体制は奉行3名、諸役人200名、人夫数千人とあり、お手伝い普請を受けた他の藩からも同様な人数が順次江戸へと登ってきた。政宗は国許にいたが、2代藩主忠宗が在勤していて、
「舎弟三河守宗泰(政宗4男)ト、毎日御普請場ヘ出ラレ・・・奉行ノ者ヘモ御意成下サレ・・」(同)とあるから工事が始まるや在府の忠宗は毎日工事現場を訪ねたのだった。

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