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神田川・秘密発見の旅47 番外編・六義園

四十七 大名庭園学習会の1

 学習会には事前の申し込みが必要だったし、受講料も2週間前に振り込まなければならない。振り込み料は本人負担となる。それはお金の問題。しかし、他に問題を抱えている。耳がよく聞こえないということ。昨年の暮れに思い切って補聴器を買った。片耳15万円、両耳で30万円かかった。ところが、これが一向によろしくない。テレビの音は聞き取れないし、大きな部屋での講演は全く聞き取れない。庭園勉強会の前に補聴器屋に行って、調整をしてもらわなければ講演料も無駄になってしまう。講演会の1週間前、補聴器屋を訪ねた。補聴器屋は田園都市線の武蔵小杉駅近くにあって、南武線を乗り継いで行く。受け付けの担当者にあれこれと調整してもらい、受信音量を上げてもらった。

六義園・正面入り口

 勉強会の3日前、JR駒込駅近くの六義園を訪ねた。大名庭園の講演会では小石川後楽園と六義園が取り上げられるからだ。六義園は元はと言えば加賀前田藩の下屋敷だった。「柳沢吉保が元禄15(1702)年に第5代将軍徳川綱吉から拝領して作庭した庭園」(重森千青氏レポート)で、吉保は徳川5代将軍綱吉の寵愛を受けて幕府側用人となった人物だが、先祖は甲斐・源氏所縁の武川ムカワ衆だということは以前から知っていた。柳沢は後に甲府・鶴ヶ城の城主になっている。     

 甲州に伝わる民謡に縁故節というのがある。
 本歌があるが、替え歌が広く知られている。

♬縁で添うとも縁で添うとも柳沢はイヤだよ、ありゃせ~。こりゃせ~♬で始まる。武川(現在の北杜市)には柳沢部落が残っている。柳沢吉保は甲斐武田氏の一族であった一条氏の末裔と名乗っていたようだが、武川衆(柳沢部落)を出自としている。吉保が一世を風靡した時代は武川衆が武田家と共に活躍した戦国時代から見ると、ずっと後になる。

六義園・泉水

 六義園の前を通ったことは何回かあった。その度に気になる公園だった。ようやく入園の運びとなって、いささかの満足感があった。駅に近い西門は閉鎖されていて、今は正門からの入場のみ。コロナの蔓延が至る所に影響を及ぼしている。ここも事前の予約が必要だった。入り口の受け付けでスマホにダウンロードしたQRコードを見せ、一般入場料の半額(150円)を払い、入場。園内をゆっくり歩きたいため、直ぐ右手のトイレで用足しをすませた。済ませて数歩進んで気が付いた。受付にスマホを忘れていた。とって返した数分で、iPhoneは紛失事件になっていた。受付の強面の女性は知らんぷり、口もきかない。

「さっき、ここで見せたスマホです」
「・・・」無言。
後ろのドアに向かって何か言ったらしい。オフィスから若い女性が出てきた。
改めて経過説明。
「入園してそこのトイレに行ってきただけ・・・ですが・・・」
と必死に説明する。スマホを失ったら貴重なデータを失う。
つい、真剣になってしまう。
窓口の女性が右手にスマホを掴んでいるのがガラスの窓越しに見えた。
「あっ、それです」
とさらに声が大きくなる。オフィスから出てきた女性にスマホが渡り、「待ち受け画面、最初の画面は何ですか?」と聞いてきた。
「農場の写真です」
女性が起動ボタンを押し、画面を確認したが、スマホは寄越さない。
「これに記入してください」
A 4版の遺失物受け取り証に住所、氏名、連絡先、日時を記入して、スマホを返してもらった。犯罪者扱いだった。

公園に入るとすぐに目につくのが石灯籠
石を渡した橋がなかなかの情緒を醸しだている

 気分は萎えたが、六義園は素晴らしかった。泉水公園で小石川後楽園に似ている感じはあるが、築山や松の林が実に見事だし、散策路が巧みに構成されていて、ある路地に入ると他の路地は築山の影になって見えず、逆に低く盛られた築山の前に来ると他の散策路や水路が垣間見える。築山に切り取られたスペースにのぞく泉水、小川、松林、石の橋が心を和ませてくれる。ただただ広く開放されている景色も悪くはないが、僅かな隙間に覗かれる景色も一興だと思う。空に突き出た樹の一本一本が景色を微妙に遮っているが、こちらが動くたびに樹々の合間の景色は微妙に変化する。しかも、わざとらしくなく、あるがままの自然に見える。なのに、人の手によって造園されたものだという主張もある。面白い。小高い丘の上に造園当時のままの「つつじ茶屋」があって、ここから六義園全体を一望できた。途中にあった吹上茶屋ではお抹茶をいただいた(850円)。

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