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神田川の秘密34の(2)  昭和の時代は人々がせせらぎを求めた。今はせせらぎは涸れ、人々の心もかれた

三十四の(2) 昭和の時代にはせせらぎが求められていた。
        平成・令和になってせせらぎはなくなり、人々の心も乾いた。

 ここで忘れてはいけないのは、江戸川橋で目白通りの地下に埋設されたトンネルへと取水された神田川の分水流のこと。分水流は本体の神田川に並行して目白通りの下を流れ、飯田橋で一部が元の神田川に戻っている。一部の分水流はさらに外堀通りの地下に埋設されたトンネルへと導かれ、水道橋まで下って、本体に再々合流する。都市河川、人工河川、トンネル河川となった神田川の典型的な姿と言える。さらに後ほど出てくるのだが、トンネル河川は水道橋に新たな取水口があって、外堀通りの地下をお茶の水の昌平橋まで流れることになる。

神田川は井の頭池から隅田川の河口まで工事中の区間を除き開渠だが
川の至るところに取水口・排水口がある

 この写真の光景はJR飯田橋駅東口を出た辺りのこと。

高速道路の支えの役割となった神田川は人目につかず、
下流へと向かう

 西口に廻ると景観は全く違ってくるから東京は掴みどころがない。丁寧な言い方をすれば、奥が深い。飯田橋の下はトンネル越しに僅かな水が流れ出ている。わずかながら水は動いている。白鷺と川鵜がそれぞれつがいで水浴びをしている姿を認めた。

排水口
飯田橋の駅プラットホームからは江戸城の石垣が見える

 しかし、飯田橋先の外濠方向は埋め立てられていて、その上にセントラルプラザという16階建てのビルが建っている。川幅は狭く、流れは堰き止められ、セントラルプラザと外堀通りの狭隘なスペースには長さにして200メートルほどの「親水公園」が作られている。この「親水公園」について公園の中央部に東京都の説明石碑が建てられている。曰く。

牛込揚場の説明碑
せせらぎのくだりが切ない

『牛込揚場 江戸時代には海からここまで船が上がってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、油、材木などがこの岸で荷上げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和四十七年に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され(プラザビル)飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田濠の一部を復元するとともに、以前水面があったことにちなんで約二百三十メートルのせせらぎを造った。外濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔の通り神田川に注いでいる。
                     昭和五十九年三月   東京都』

せせらぎの「遺跡」
かつてせせらぎであった証拠のように橋が残っている
消えたせせらぎ

 それで、せせらぎだが、いつからそうなったのかは分からないが、川旅老人が歩いたこの時期、つまり令和3年7月には、水は一滴も流れていなかった。かなり干からびていて長い間水は流れていなかったと見受けられた。水路というより、道路に近い姿だ。かえでばし、ひいらぎばしなどの名前がついた橋が架かっていて、かつてせせらぎが有った痕跡となっていた。川に架かる橋ではなく歩道橋に姿を変えていた。濠を保存してほしいと強く要望した都民はもういなくなったのか、あるいは何か訳があって水の流れを止めているのか。かつて澄んだ水が流れ、親水公園であった頃を知っている人々には只々時の流れだけが迫って来るのみだ。

人目を偲ぶように溜り水になっている飯田橋外濠

 干上がっているとはいえ、以前は水の流れていた人口的なせせらぎの真下には地下トンネルがあって、外濠と神田川とは繋がっている。流れこそ見えないが、水は地下トンネルの中を動いている。JR飯田橋駅西口の改札口を出た目の前の橋、牛込橋の下で牛込濠へと繋がっているようだ。しかし、駅のプラットホームや牛込橋の上からは判然としない。それでも注意深く観察すると隠れた場所に水門が僅かに姿を見せている。プランクトンが異常発生しているのだろうか、この辺りで見る濠の水は緑色に汚濁している。異臭はないようだから、汚物の沈殿は防がれているのだろう。


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