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神田川・秘密発見の旅 後編19 2歳の亀千代神田川工事を引き継ぐ

後編19  仙台堀始末、2歳の亀千代君普請を引き継ぐ

 万治はわずか3年で終わり、
元号は4月25日から寛文(1661~1672年)となる。

将軍は慶安4(1651)年から徳川4代家綱に変わっていた。
家綱以降、将軍宣下は京都ではなく江戸城で行われるようになった。
 万治4(1661)年3月5日、伊達亀千代は桜田上屋敷邸の代地として麻布に上屋敷地をもらっている。つまり麻布に2万6000坪。この旨は伊達兵部、田村右京に伝えられている。この一帯、有馬松千代頼利(筑後久留米藩)には1万坪、岡田豊前守義政(幕臣・伊勢内宮造営奉行)には下屋敷3600坪、小出越中守尹貞(幕臣・京都奉行)には下屋敷3000坪が下されている。
いずれにしても代替わりしたばかりの仙台藩には破格の土地が提供されたのだった。

 移転の費用として幕府から銀2000貫を受け取っている。
(寛文時代、1両=銀50匁=10万円。1貫=1000匁で換算すると40億円になるが、これは銀2000貫の記述が正しくないか、筆者の計算違いかと思う)

目の前には徳川家の別邸となる浜御殿(25ha・75,000坪)があり、その向こうは江戸湾だった。嘉永年間の江戸図(板元 尾張屋清七)を見ると伊達藩上屋敷の左隣は松平肥後守の中屋敷、右には脇坂淡路守の上屋敷になっている。
ついでながら仙台藩・桜田邸は現在の都立日比谷公園の中にあって
(公園の約4分の1のスペース)
政宗終焉の地という掲示板が建てられている。

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