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神田川の秘密31 江戸の歴史散歩・音羽通りを護国寺に歩く

三十二 江戸の歴史散歩・音羽通りを護国寺に歩く
 歩き始めて5分もしない内に、悔悟の念が湧いてきた。音羽通りは護国寺に向かって間断ない緩やかな登り坂になっていた。右手に鳩山会館の森が見えてきたあたりで、自分が決めたことを取り消したくなった。足が痛い。江戸川橋に近いところが音羽1丁目、護国寺仁王門前が音羽9丁目。未だ3丁目でしかない。

音羽通りを上る途中にある鳩山会館の森

 何で歩こうと思ったか、それをもう一度咀嚼し直した。
 犬公方と異名をとった将軍綱吉の母は徳川3代将軍家光の側室で、
綱吉は家光の4男。家光の後を継いだ兄の家綱に男子の子がなく綱吉が養継嗣となっていたが、家綱は40才の若さで亡くなった。家綱は本編序盤に登場する明暦大火の折、老中の手腕を信じて処置を任せたあの徳川4代将軍家綱である。

 家光には正室のほか7人の側室がいて、綱吉の母桂昌院はその一人。
綱吉は(運良く)将軍職に就くが自分が将軍職に就くにあたって功労のあった堀田正俊を大老(1681・天和元年)につけた。堀田は後に貞享元年(1684)8月従叔父・稲葉正休に江戸城内で刺殺されている。刺殺した正休もその場で殺害されたと言うから。事件は尋常ではない。家綱時代の大老酒井忠清は排除された。
 赤穂藩・浅野長矩に即日切腹を命じたのはこの将軍で、正俊が死んでからは大老をおかず、柳沢吉保を側用人として重用している。能力の評価より自分に忠実かどうかが人事の判断基準になったわけで、今の日本の国家要職の人事判断につながっているように見える。

柳沢家の墓所(山梨県・東光寺)
東光寺山門

それはともかくとして、母親の桂昌院を特別待遇し、前例のなかった従一位までの高い地位を朝廷に求めた。綱吉が「生類憐みの令」を発令したのはあまりにも有名。
「護国寺の開山は上野国(群馬県)の真言宗の寺、護国寺の亮賢(リョウケン)で、
亮賢は桂昌院が綱吉を出産した際の祈祷を担当した。本来は後継者の座になかった綱吉が運良く5代将軍の座に就くと、桂昌院は亮賢のために幕府とその資金力を活用して、現在も残る護国寺の地を用意し、亮賢を開山として護国寺を創建した」(菅野俊輔 監修「大江戸古地図大全)

護国寺のそもそもの始まりを説明する看板

 お偉い人の妻や親が特権的な地位を利用して様々な影響力を行使するというのも今の時代に引き継がれている日本の伝統なのだろう。綱吉も桂昌院も江戸川橋から護国寺に足繁く通った、と物の本に書かれている。川旅老人が音羽通りを護国寺まで歩こうと思い立ったのは綱吉、桂昌院の参拝を追体験してみようとしたためだった。しかし、それは大間違いだったと気づいた。彼らはお駕籠に揺られて参拝したのだ。今ならベンツかレクサスに乗って護国寺に参拝するのと同じなのであって、徒歩で同じ通りを歩いても、追体験にはならない。とはいえ、お駕籠という乗り物は歩く速度だったはず。タクシーで坂を上がる訳にはいかない。

音羽通りの坂を上り切ったところに護国寺の山門が見える
地下鉄江戸川橋駅
護国寺の最寄りえきは一つ先の護国寺前駅
神田川は江戸川橋からその姿を一変させていく


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