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真の弱者は助けたくなるような姿をしていない

容姿、というのは、わりと多くの人に重要視されている項目だと思う。
自分はそうじゃない、と思う人でも、無意識のうちに、容姿のよい人に好感を抱いている、というようなことはあるのではないか。

小さい頃、絶望的にブスだった。
4歳くらいのとき、鏡で自分の顔を見て絶望したのを覚えている。
以来わたしは、鏡を避けた。
めちゃくちゃブスな幼子、というのは、実は大人にもたいして可愛がってもらえない。
ましてや周りの子供たちにも好きになってもらえない。
対照的なほどに可愛かった、2歳年下の弟は、大人たちにも子供たちにも大人気だった。
わたしは心を閉ざし、自分の殻にこもりがちな、イヤなガキになっていった。
性格が暗く、読書が好きだった。
本だけが、お友達だった。

それなりに可愛くなってきたのは、小5か小6の頃だった。
もともとわたしは父に似ている。
美形だった父から、いくつかのパーツを受け継いだ。
めちゃくちゃ可愛くなったわけではない。
けれど、中の中、見る人が見れば中の上、そのあたりに食い込んできた。
男の子たちは、依然としてわたしを嫌い続けた。
けれど、女の子たちの態度が変わってきた。
女の子たちは、わたしを可愛がってくれるようになった。
クラスでのいじめはトラウマだけど、優しくしてくれた女の子のことは、いい思い出だ。

18歳になり、わたしは進学というかたちで地元を離れた。
大学に入学して、一番びっくりしたことは、男子学生たちが、きれいな子、可愛い子、と優しくしてくれることだった。
わたしが地元で男の子たちにどれほど嫌われていたか、誰も知らない世界。
その世界に突然放り込まれて、わたしは、大学デビューするどころか、どんどん病んでいった。
男子学生にチヤホヤされるたび、思っていた。
「こいつも子供の頃は、ブスな女をいじめてたんだろう」
わたしの闇は深かった。

今年50歳になる。
今のわたしは、精神科に通院している、というだけで、他にこれといった特徴もない、そのへんのアラフィフだ。
けれど、今でもわたしは思っている。
絶望的にブスだった、ほんの小さい頃、誰もわたしを助けてくれなかった。
優しい声をかけてもらえるようになったのは、顔つきが多少整ってきてからのことだった。
わたしは精神障害者だ。
社会的弱者だ。
社会的弱者の世界には、その世界の中でも、さらに弱者として存在する人々がいる。
たいてい、あまり関わりたくならないような容姿をしている。
それだけではない。
その言動も、深く病んでいることが多い。
わたしには、彼らの気持ちがわかる、と思うのは、思い上がりだろうか。
わたしは、彼らと同じ闇の中にいる、と思うのは、考えすぎだろうか。
彼らに少しでも優しくしたい、だってわたしもずっとそうしてほしかったから、と思うのは、偽善だろうか。

真の弱者は助けたくなるような姿をしていない。
それは、ひとつの真理だ。
わたしは葛藤している。
わたしは、医療、福祉の人間ではない。
出過ぎたことも、してはならない。
けれど、人として、彼らに対してどうあるべきか。
それを考えている。





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