いのちの教育をどう進めたらよいか

◆ はじめに

 私はキャリア教育を主眼おいた総合学科高校に勤めています。最近こんな出来事がありました。ほとんどの生徒が自転車で通学しているのですが4月からの半年間で生徒の交通事故件数は14件と、近隣高校の約2倍の多さになっていました。入院しなければならない事故も発生し由々しき事態だと判断しました。生徒指導担当に何か手を打たないといけないのではないかと問いかけても芳しい提案がかえってきませんでした。学校は様々な教育活動が行われており、そのプログラムの消化に追われている感もわかりますが、生徒のいのちに対する危機感や切実感の共有と持続は大変難しいと実感しています。近々実施するいじめアンケートと同時に登下校中での「ヒヤリハット」事案をアンケートで収集せよと指示をしました。同時に教頭先生には教職員全員に授業や部活動など学校生活全般における「ヒヤリハット」事案を集めるように指示しました。


◆ 学校におけるいのちの教育の前提

 学校教育はまず、安全・安心の絶対的な信頼のうえに成り立つものです。しかし、日々流動する学校のなかでその土台となる「いのちの大切さ、かけがえのなさ」の認識をメインテナンスしておかないと思わぬ危機が待ち構えています。いのちの教育を進めるためには前提が2つあります。まず、教職員側がいのちの大切さ、かけがえのなさについて感覚を研ぎすませ、教育活動の第一優先として情報が共有され迅速な行動が取れる職場風土がなければなりません。管理職の意識が大変重要ですね。その風土なくして「今日はいのちの大切さを学びます」と子どもたちに語っても心に響きません。

 そして、いのちの教育を実践するためには教職員自身が有限のいのち、すなわち自身も死すべき存在であることを意識している、意識しようとしているのか、いのちに対する真摯な態度が自分ごととしてあるのかということが大切です。いのちの大切さ、かけがえのなさの背面には必ず死すべき存在としてのいのちの特性が張り付いています。このいのちに対する態度には答えはなく、個人の価値観やある種の宗教的な心情にも関わってきます。いのちの教育を学校教育で実践することが困難である所以です。家庭教育に任せるべきである、という意見が出てきて当然なのです。いのちの教育は場合によっては子どもたちに自分ごととしての態度を表出することが求められることもあるうるのです。これは難しいことではありません。教壇を降りて共に有限のいのちを生きていく存在であるという同胞感のような心情が必要なのですね。通常の教育者としての知識や技能の伝授という高い立場から子どもたちと同じ地平に立ち、慈しみとリスペクトをもってともに学び合うのだという意識をもつ必要があります。


◆ いのちの教育で学んだこと

 私は高校の生物を教えていた一教員でした。クラス担任として、受験指導や部活動指導に明け暮れていました。1997年神戸市須磨区でA少年による児童殺傷事件が起きました。犯人の中学生はマスコミに謎めいた犯行声明を送りつけ、いのちを軽視する挑戦状として世間を震撼させました。事件発生の2年前、阪神淡路大震災が起こり、いのちの大切さや支え合うことの尊さが学校現場で叫ばれたまさにその時だったのです。当時、私は新聞部の顧問をしていました。死をゲームのように捉える危うい時代の雰囲気を感じ取り、生徒とともにいのちとは何か、死とはなにか、と取材が始まりました。その結果、多くの新聞やテレビでも取り上げられ大きな反響がありました。私自身も兵庫県教育委員会がその対応のため編成したワーキンググループの仲間にさせていただいたり、その縁で兵庫・生と死を考える会の「生と死の教育研究会」に参加させていただいたりしました。現在その後継としてのいのちの教育実践研究会で学ばせていただいています。

◆ 高等学校のいのちの教育実践例

 高校の理科、特に生物を教える場で、生殖細胞の形成という単元があります。私たち人間の細胞ひとつ一つには染色体が46本入っています。23本は父側、すなわち精子から、23本は母側、すなわち卵から運ばれてきたものです。だから、だれでも父にも母にも似ているんだねと、ここは当たり前のように生徒は聞いています。では、次に自分が精子(卵)を作る場合を考えます。詳しくは減数分裂という体細胞から生殖細胞をつくる仕組みの内容の話で、高校生物では基本的な知識です。実は23本の染色体は番号がついており、形や大きさはそれぞれ異なります。つまり私たちの細胞の中の46本の染色体は精子由来の第一染色体が1本、卵由来の第一染色体が1本、ペアとして存在しておりこれが23セットで存在しています。そのような自分が今度は親となって精子(卵)を作るとき父由来の第一染色体と母由来の第一染色体のどちらかしか自分の精子(卵)に伝えることはできません。そうしないと受精して生まれる子どもの染色体数は92本になってしまします。第一染色体には様々な遺伝情報(生命の設計図)がはいっています。当然第一染色体であっても父由来と母由来とでは遺伝情報(生命の設計図)は異なります。ですから、自分が精子(卵)を作る場合、第一染色体の遺伝情報においては2種類できることになります。染色体は第23番までありますから、精子(卵)の種類は2✕2✕…=223=約800万通りという大きな数になります。そうすると精子と卵の受精における組み合わせはどうなるでしょうか。つまり、偶然の出会いによって次世代のいのちが作られるわけですからその染色体の組み合わせの総数は223✕223=約64兆通りという天文学的な数になるのです。このあたりから生徒は身を乗り出してきます。「君たちはこの組み合わせの一つとして生まれたのだね。1/約64兆通りとしてこの世界に生まれてきた唯一無二な存在なのです」※高校生物で染色体の部分交換という乗り換え現象が生じているので一人の親から生じる精子(卵)の種類は実は無限大となります。自分は両親から1/∞として生まれてきた。隣の人も皆同じくかけがえのない存在。

「みんな、『かけがえのないいのち』っていうよね。代替することができないという意味だ。このボールペンをかけがえのないボールペンとはいわないよね」「かけがえのないいのちとは、観念的なものではなくて生物学で全く説明できることなんだ」。ここで生徒は何かいいたそうな顔になってきます。「このような無限の組み合わせの中からみんなは生まれてきた。その組み合わせは一回限りだね。だから、この世界において自分はとってもユニークな存在で、世界(宇宙)の歴史の中で1回限りしか存在しないんだ。だから自分は過去にもいなかったし、未来にも存在しないと考えられるんだ」。最近元気がなかった生徒がなにか言いたそうな顔をしていました。〇〇さんどう思いますか。「今日の授業を聞いて、なんだか嬉しくなりました。なぜだかうまく言えませんが…」

◆ 命の有限性

 A少年事件や佐世保小6同級生殺害事件など子どもが子どもを殺傷する事件が2000年はじめに多発しました。生と死の教育研究会では、いのちのかけがえのなさ、大切さを子どもたちにどのように伝えたらいいのか、どのように自他のいのちをかがやかせたらいいのかというテーマで研究を続けていました。しかし、いのちの大切さに対して時代は死の問題を回避してアプローチすることを許しませんでした。私たちは2004年に子どもが命の有限性を認識するのはいつか。すなわち死を認識するのはいつなのかについて大規模なアンケート調査を実施しました。※兵庫・生と死を考える会2004年 小1〜中2 2189人 いのちの大切さを実感させる教育のあり方 (財)21世紀ヒューマンケア研究機構

 命の有限性とは、命あるものは必ず死ぬ(死の普遍性)という認識と、ひとたび死ねば命は生き返らない(死の絶対性)という2つの認識のことを指します。質問は抽象的なものではなく「あなたは自分がいつか死ぬと思いますか?」といった自分や父母を含む具体的な内容で聞いています。

◆ 死の不可逆性のゆらぎ

 子どもが死の普遍性を認識する時期は7歳で深まり9歳で確立することが判明しました。死の絶対性については9歳で確立するものの年齢が高くなると認識にゆらぎが生じてきます。すなわち認識率が落ちてくるのです。中学2年生でも「生き返らない」とする回答は80%を超えません。これは長崎県教育委員会の調査結果と一致します。これらの結果と分析は「子どもたちに伝える命の学び」(東京書籍2007年)で述べましたが、子どもの死生観に影響を及ぼす要因についても調べました。低学年(小1〜小4)では、死が怖くないと思う子どもは死んでも生き返ると思っている傾向を示しました。ゲームを1日3時間以上する子どもは死んでも生き返ると思っている傾向を示しました。家族に大切にされていない子どもは死の普遍性の認識が低い傾向を示しました。高学年(小5〜中2)では、自傷行為をする子どもは死の普遍性に対する認識は低い傾向を示しました。これまでに「命の大切さ」について誰かに教えてもらったことがありますかという問いに対して「教えてもらっていない」と答えた子どもは死の普遍性に対する認識が低い傾向を示すなど驚くべき結果が出ました。これらは調査から判明したほんの一例ですが、大人にとって自明の理である「いのちは大切である」という概念は現在の子どもを取り巻く環境では自然と身につく価値観や情操ではないのです。むしろ保護者から愛情をかけてもらえず、危険なメディアに過剰に接することは例外的なことではありません。大人が子どもたちに意図的に働きかける「いのちの教育」がいまこそ必要であると思うのです。

◆ 教師自身が変わるいのちの教育

 子どもたちを取り巻く状況は急速に変化しています。ソサエティー5.0に備え、情報化、グローバル化に勝利する国家の方向性に鑑み新学習指導要領への対応など教育現場は多忙を極めています。いのちの教育を実践する領域としては道徳教育が考えられますが高等学校では道徳教育は教育活動全体でなされることになっており、いのちの教育を新たな課題教育と位置づける必要はありません。これは小学校、中学校でも同様に考えるべきだと思います。

 かつて、担任をしていたとき教室に居残っていた生徒が校舎から夕日を眺めていました。「きれいだね~」と背中に声をかけながら近づくと振り返りもせず、無言の時間が過ぎました。そして夕日が町並みに沈もうとしたとき振り返りながら「わたしもいつかいなくなるんですね」とつぶやきました。「うっ」と言葉に詰まり、とっさに気の利いた言葉は出ないままともに夕闇に包まれていく町並みを見ていました。

 いのちの教育に取り組む前、私は授業や学級経営、受験指導など業務に追われる毎日を過ごしていました。どうしても教師然とした立場で生徒指導を行っていました。それは私にとって少し窮屈な世界でもあり消耗する働き方でもありました。いのちとは何か、自他のいのちを大切にし、個々のいのちを輝かせるために教育は何ができるかを考え、学び、実践する中で次第に教育観が変容していきました。ともに有限の命を生きる者同士のリスペクト、慈しみが生まれました。教師という立場を大切にしながらもいのちという繋がりをもった先達としての立場が車の両輪のように形作られ一貫性のある教師像が形成されていったように思います。つまり、いのちの教育は子どもたちにとって重要な教育テーマですが先生方一人ひとりを生き生きと活かす教育活動だと確信します。今、管理職として学校経営に指示を出せる立場にありますが、子どもたちの現状に鑑み、必要とならば推進委員会を立ち上げてもいいでしょう。しかし、その前に学校風土にいのちの大切さを根付かせたいと思います。風土作りとは先生方の日々の実践にこそあるものです。

◆ いのちの教育をどう進めたらよいか(既存の教育活動をいのちの教育として意味づけていく)

 いのちに対する学びはその時のタイミングが大切です。飼育していた金魚が死んでしまった。おじいちゃんが病院に入院して元気づけたい。心にもないことを言ってしまって友だちが休んでいる。塾のことでお母さんに叱られて家にかえりたくない。など、子どもたちは小さな心を痛めて先生にサインを出します。そのとき、受け止めることができる学校でありたいものです。また、しんどい子や元気いっぱいの子どもたちが学校行事やボランティア活動で互いを認めあい、自信を深めたなら、立派ないのちの教育が進められていることになります。これらの日々の教育活動の成果を先生方同士でいのちの教育という視点で意味づけていくことがとても重要だと思います。そのような職場こそが前述した豊かな職場風土そのものであり、子どもたちには包み込む愛のある学校といえるでしょう。保護者と学校では愛の形態は異なりますが、この愛を感じて子どもたちは育っていきます。かつて見た保健室は花や手作りのマペットが本棚に置かれていました。本棚にはいのちを考えさせる素晴らしい絵本が置かれていました。そこに温かいいのちの教育を私は感じました。

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