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29 なるべく図解付き 夕顔の巻 儚くなる夕顔、紫式部の祖父母と醍醐帝の後宮

・ ただ冷えに冷え入りて 息は疾く絶え果てにけり

「昔物語にはこんな話もあるようだが」と、この事態が恐ろしくて信じられないまま、女の身が心配で、我が身も顧みず抱き締めて呼びかけますが、
ほんの先程まで、自分の愛撫によく応えて熱を帯びて返した女の体が、今はただ冷たくなっていくばかりです。
何としたものか、言葉もなく、両の腕に冷たくなっていくささやかな女の体を抱えたまま茫然としているばかりです。

エゴン・シーレ 『死と乙女』

ここには頼れる者の一人とていないのです。
法力あらたかな僧侶でもいてくれれば頼もしいところですが、深夜のこの寂しい荒れ邸では望むべくもありません。

右近滝口の手前、口では強がりますが、帝の寵児として末端の細務などと無縁に生きてきた17歳の源氏は、為す術もなく、
命の消えていく女をひしと抱いて、「ねえ、死なないでおくれ」「そんな悲しい目に遭わせないでおくれ」と呼びかけるのですが、
女の体は冷たくなっていくばかりで、魂の去り行く実感が我が身一人の腕に迫るばかりです。

右近はもはや恐怖心も忘れて泣きじゃくっています。
「まあ亡くなるまでのことはあるまいよ」「夜は声が響いてかなわない」「静かになさい」
源氏は、📌貞信公が紫宸殿で鬼を一喝した話を思い出して心を奮い立たせて言っていますが、
あまりに突然のことで、本当は途方に暮れています。

月岡芳年 『貞信公夜宮中に怪を懼しむの図』


・ 惟光を呼ばせる

先程の滝口を呼んで、
「すぐに随身に、惟光の家に急ぎ、『物の怪に襲われて苦しんでいる人がいるから至急に参上せよ』と伝えさせよ」「そこに居れば兄の阿闍梨にも共に参るように申させよ」「惟光の母尼君はこういう忍び歩きを嫌がるので、決してこのことを耳に入れぬよう心させよ」
など命じます。

本当は、胸が詰まって、この人を死なせてしまってどうしたらいいのだろうと恐れる気持ちと辺りの不気味さが相俟って、堪らない気持ちになっています。


・ 📌臬鳴松桂枝

真夜中も過ぎたのか、が強くなってきて、松の枝の鳴る音も鬱蒼たる山奥のように響き、不気味に嗄れた声で鳥が鳴いています。
これがだろうかと思います。

あれこれ思いめぐらしては、「どうしてこんな心細いところに旅寝などと思い立ってしまったのだろう」と後悔するのですが、どうしようもありません。

・ 我一人さかしき人にて

右近は何も考えられなくなって、夕顔にぴったりと寄り添って、今にも死んでしまいそうに震えています。
「この女房もどうなってしまうのか」と、源氏は何も考えられずに、せめて右近の衣を掴んでいます。
心強い従者もおらず、冷たくなった女と正体を失くした女がいて、我一人が正気でいるのだと、堪え難い気持ちでいます。

・ 疑心暗鬼

灯火が仄かに瞬き、居間の仕切りに立てた屏風の上のあちこちに陰ができ、何かの足音がみしみしと音を立てて後ろから迫ってくるような気がします。

・ 待ち人来たらず

「惟光よ、早く来てくれ」と思います。
乳母子の惟光は同じく17歳の、泊まる女の多い男ですから、なかなか見つからず、夜が明けるのが千夜をも過ごすように待たれました。

・ 後悔と醜聞の恐怖

鶏の声が遥かに聞えて来て、漸く少し気の緩んだ源氏は、
「なにゆえにこんな命懸けのばかげた冒険などしたのだろう」
「自らの招いた罪ではあるが、大それたことをしてしまった」「後にも先にも語り草になるようなことをしでかしてしまった」「こんな醜聞は隠しきれまい」「帝のお耳にも達するだろう」「世間は何と言って嗤うか」「口さがない者どもの格好の餌食となろう」「ひどい醜名を残すことになろう」と、
自分の名誉が毀損される恐怖で心が乱れ始めます。


📌貞信公が紫宸殿で鬼を一喝した話とは
大鏡にある「藤原忠平が、醍醐天皇朱雀天皇かの御代に、宣旨を承って紫宸殿を通る時に、刀のような爪の長く生えた毛むくじゃらの手に掴まれて鬼だと恐ろしく思うが、臆した様を見せてはならぬと、「勅宣の執行の身を妨げるとは何者だ!許さぬぞ!」と太刀を引き抜くと、鬼は逃げた』という話です。

源氏物語の『女御更衣あまたさぶらひたまひける』時代とは正にその頃らしいのですが、忠平の仕えた醍醐帝には紫式部の祖父母の世代の女御と更衣がいたそうですから、この時代への式部さんの愛着が一際強かった可能性があるのかという気もします。

【系図】 紫式部の祖父母世代と醍醐帝の女御更衣と貞信公


📌 臬
桂枝 蔵闌菊叢 蒼苔黄葉地 日暮多旋
梟は松桂の枝に鳴き 狐は蘭菊の叢に蔵る 蒼苔紅葉の地 日暮れて旋風多し
白氏文集の 『凶宅』という風諭詩というものだそうで、没落した邸の荒涼たる様を描いているそうです。

が騒ぎが鳴くと、この荒れ果てた邸を詠んだ漢詩を示唆するのはさすがに漢学エリートの式部さんということになるのでしょうか。
旋風とは地形にも因るのかもしれませんが、が更けてが強くなるという描写もこの詩に沿っているように思われますし、どちらがだかという夕顔との戯れ合いも、この詩への伏線だったかと思わされます。

                        眞斗通つぐ美

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