空気を読む

「空気を読む」という日本語が使われ出したのは、割合に最近のこと、といっても2000年代に入ってからではないでしょうか。

では、それ以前の日本人は「空気を読む」ことをしなかったのでしょうか。そんなことはないと思いますが、「空気が読めない人」に対してとくに非難が向けられるようになったのは、やはり2000年前後でなかったかなと思います。そう、発達障害という概念が一般化されてきた頃と呼応するのでしょう。

空気を読むことが、まるで日本人のお家芸であるかのような言説もありますが、それは私の経験上、完全に間違っています。現に先日も、大学で同僚たちとおしゃべりしていて、(そのグループが社会心理学系に近い研究者たちだったこともあり)フロイトだラカンだガタリだドゥールーズだと、私も途中からついていけない話題になった時、同僚Sは read an atmosphere という言葉を使っていました。

ただ、なにもこの時に限らず、私の感覚ですが従来のイギリス人は空気を読むのがとても上手です。それどころか、空気を読む能力は、日本人よりもはるか斜め上をいくうまさではないかと思います。まあ、それは程度の違いなので何とも比べようがありません。が、決定的に違うと思うのは、空気を読んだ後、ではどうするかという対応の方ではないでしょうか。

もうちょっと難しくいうと、空気を読んだ後の「主体」をどちら側に置くか、というところに違いがあるように思います。

日本の場合、「同調圧力」という言葉がしばしば「空気を読む」とセットで登場することに表れていますが、「空気を読め、そして、私(たち)の方にあなたの都合を合わせろ」という含意があります。主体の中心が相手ではなく、自分側にあるのです。もちろんイギリスの場合も、こういう場面、同調圧力をかけてくる場面がないとはいいませんが、むしろ多いのは、主体の中心が逆の場合です。空気は読めた、では「あなたの都合を活かすために私は何をすればいい?」という展開ではないでしょうか。

実はこれに似た表現は日本語にもありますよね。そう、「忖度」です。これがイギリス人の場合、実に上手いことが多いです。もちろん上手くないこともあります。

年齢が上の者を敬うことが文化的に定着して長い日本ですから、日本にいて、年をとってくると「自動的に」若い方々から忖度を受けることが多々出てくるようになります。ところが、こういっては申し訳ないですが、その忖度がニーズに合っていることがあまりない、というのが私の感覚です。

これはなぜなんだろう、と思うことが多く、今のところ達しているのは、そもそも日本人は(とくに若い世代ほど)空気を読むのが下手なのではないか、という推測です。

一般的に、どの文化圏でもそうでしょうが、若者は自意識過剰です。それが若さの特徴でもあるのでしょう。だからこそ、他者とのコミュニケーションを通じて肥大した自我をコントロールすることが人間の成長でもあるはずですが、その生々しい人間同士の交流が年々失われてきているので、その分、肥大した自我は野放しになるということになりますね。

それは、日本人の、とくに一般的に福音派のクリスチャンの祈り方にも実によく現れています。私が耐えられないのは、自分の不安や辛さがまずあって、それへの解決をお願いするという、自分の利益が中心にある神へのお願いと感謝がセットになった祈り方です。

ただ、こういった祈り自体はあってもいいとは思います。人生は苦痛や困難に満ちているのですから。しかしこういった願いはもっと小さな神々、天使的な存在にお願いすることであって、父なるキリストの神への祈りとしてはかなりズレているのではないかと思います。

研究の合間、お茶の時間に思ったことを、ふと書き散らしただけの回ですので、今日はここまでということで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?