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学校の「余裕」を考える


こどもたちが、学校でのびのび社会経験を積むには何が必要か。

失敗できる時間、経験できる時間、自分の心とじっくり向き合う時間の余裕が必要なのでは、と考えている。

そしてそれを、じっくりと見守りながら育ててあげられる環境が、昭和の時代にはまだあったように思う。

先生方は個性的で、苦手な先生や好きな先生がいて、こどもたちもそれを体現して。

友達関係もしかり。
苦手な子がいて、よく遊ぶ子がいて、仲間はずれにもされ、嫌なあだ名で呼ばれたりもした。
クラスメイトと仲違いしても、クラブ活動や校外活動で心の支えになってくれる人との交流でホッコリできたり、自分がしてしまった過ちを、時間をかけて丁寧に聞き出してくれる先生がいたり。以前溝ができてしまった友人と、時間が経ってから和解できたり。

人間のことだ。今の気持ちが絶対とは限らない。変化する。成長する。

その変化を待ちきれないで、「今」なんとかしてあげなければ、と、信頼関係が築けないまま、心の内をさらけ出せるようになる前に、一方的に個人の感情まで指定されてしまう場面が多かった。

本当に、教育現場では信頼関係がモノを言う。心を開く前に一方的な物言いを教師がしたら「なんだコイツ」になる。

私自身の人生では、「来年の教え子達の姿」を想像して教壇に立つ、という考えには、なかなかなれかった。
1年間、もしくは半年限りのお付き合い。はたまた病休・産休の先生のご都合次第。突然職を失うことになっても、また次の講師依頼があるかもしれないと思うと、気易くバイトも決められない。

毎回消化しきれない葛藤や悩みを抱え、任期満了を迎える。自力ではどうにもならなかった頃を、この記事を読んで思い出した。



改めて、わが子たちが関わっている学校のことに思いを馳せてみる。

先生方には、子の成長を見守る余裕は、まず無いな、と感じている。

社会全体がそうだと感じている。

わが子達はよく
「こどもらしい子供だね。その純粋さや素直さを忘れないで育って欲しいな」
と他人に言われるのだが、

私自身に自分の余裕がなく「周囲に合わせて発育させなくては」と思っていた頃には、穏やかに受け止められずにいた。「周りと違うことに対しての子への焦りや憤りがあったし、そうできていない自分への批判を浴びるのが嫌」でオドオドしていた。

最近は、だいぶ図太くなってしまって、子が失敗したときに自分で反省できるまで待てるようになってきた。怒鳴りつけてまで、すぐに「ごめん」を言わせるようなことは、しなくなってきた。

じっくり振り返ることかできる、心の内をごまかさずに話してくれる関係性こそ、今のこどもたちには必要。
いや、今も昔も必要。
これから先の未来、いくらAIが発達しても、人間が感情と理性を行ったり来たりする生き物である以上、命がつきるまでオトナだって必要。

しかし相手がいる以上、スピード解決を望む方に対しては、また違った配慮が必要だけれども…

人は1人1人別人格で、何か注意したところですぐには変わらず、しかし大切なことは行いを変えるまで言いつづけ、強烈な体験と共にその意味が腑に落ちるまで、伝えつづけられるのは、今は親くらい。

町中で注意されたり、近所の方に諭されたり、大人の話を盗み聞きして、人間関係を学んだり…

なるべくそういう体験ができるよう、多彩な人に触れて、考え方が固まらないよう
オトナにはいろんな人がいて、先生や親だけが手本ではないんだよ、と、正解ではないんだよ、と、疑える人間になって欲しい。

そして自分にとっての大事なことを、心に灯せる人間になって欲しい。

それを待てる、こどもの周りの身近なオトナ代表に、できれば先生方にもなって欲しい。

トラブル起きて、何が起こったのか話聞いてお互い謝らせて、はい解決。
あだ名呼びを禁止し、〇〇さん呼びと指示して、こどもの人間関係を観察しない。
進路先に関する情報は、お互い口にしてはいけない。

これ一番びっくり。
受験生に配慮しての事だそうなのだが、そこまで先生方は疲弊していて、児童や保護者に参ってるのだな、と、改めて実感。

この事についてはまた今度。

紹介した新聞記事のように、日本の教育機関で働く方々に安定と余裕を産み出せる社会にしたい。


追記

講師時代、2年かけて信頼関係築いたお子さんに「卒業して嫌なことあったら、先生に会いに来るね!」と言われた時、とても嬉しかったと同時に、ものすごくやるせない気持ちになったことを覚えている。

また、年度末に向けて、「あまりベッタリしすぎて、この先生じゃないと嫌だ!と新年度の担任が言われないように、程々の距離感を保つように」と言われて悩んだこと。

来年度のことを決める、クラス替えや職員会議で意見をしたとき、「この学校の悩みや問題点も見えてないし、来年いるかも分からないのによく言えるわねそういう意見。」といった雰囲気が醸し出されるところ。←単に無鉄砲だっただけかも知れない。被害妄想かも!

職員会議のリーダーが、校長だと決まってしまってからの現場は、萎縮していないのか気になっている。


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