自分が見たいと思うようにしか見えていないということ?

視覚障害のある私と出かけるなんて面倒だろうから
と思うと、なかなか人と一緒に出かけることに勇気が持てませんでした。
この話を、一番気兼ねなく話せる友人にしたところ、
そんなことはない
と言われます。

しかし、友人は「どう公演後」という、視覚障害者と一緒に通院や買い物を業務として行える資格を持っているので、ボランティア精神というか、福祉の心というかが備わっているので、そんな言葉は全体のごく限られた人間のもので、信用できないと思っていました。
そう、どんなにその話の検証が不十分でも否定の目で見ていました。

私と一緒に歩くことを面倒そうに言う人、同性の方がいいだろうと他の人に任せようとする人、色々な人がいます。
どちらかというと、世界の大半はそういう人なんだろうと、心のどこかで思っていました。

でもそれは、私が傷つかないために世界をそう見ようとしていただけなのかも?
初めて一緒に歩く人、特にどう公演後の資格がなく、視覚障害者の誘導の経験のない人と歩くときは緊張します。
それでも一緒に歩こうとしてくれる人がいます。
誘導の基本姿勢とはかけ離れていても、その人なりに心を配って一緒に歩いてくれる人がいます。
というか、街中を歩いていると、そういう人にたくさん声をかけられてきていました。

それだけでなく、一緒にごはんを食べたり、グラスに沈んで氷に埋まっている果物をスプーンで拾ってくれたり、そうしたことを面倒と思わずにしてくれる人がいるのも確かなんだと思いました。
それは決して危篤な人ではないのかもしれません。

ここ最近出会った新しい人と、は私の世界にひとつ異なる見方を与えてくれた気がしました。
私の相手をするのが面倒だと一番感じているのは私だったのかもしれません。

改めて視覚障害があっても変わらず友人でいれくれるみんなにも感謝しようと思いました。

心のどこかで、本当は嫌なのに仕方なく一緒に歩いてくれているのではないか、申し訳ない、と思うことがないわけではありません。
そうしたとき、その考えには自分のフィルターを通してみているということを意識しようと思いました。

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