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ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ

会期末近い金曜夜とあって、会場は結構な混雑、体力のない悲しさで、順を追って行儀良く鑑賞することは早々に断念し、気になった作家/作品に絞って観ることとした。

アーシル・ゴーキーという作家の作品を初めてきちんと観た(「無題(バージニア風景)」(1943-44頃)、「無題」(1946頃)、「無題」(1945頃))。

「無題」(1946頃)
「無題」(1945頃)

黒の絵具・クレヨン・鉛筆による不思議な形が並び、ところどころに無造作に色が置かれているといった雰囲気である。最初は通り過ぎそうになったのだけれど、ふと奇妙な線画が目に入って足を止めた。よく眺めてみると、形を描く線はきわめて繊細で、慎重に設計していることが感じられた。躊躇っているようで実は確信をもって引かれていく線。細い線によって種々の形が結ばれてはほどかれるリズム。静かではあるが不思議と惹きつけられる画面である。淡い色彩とのバランス感覚も絶妙で、いつまでも眺めていたいとさえ思う。

マーク・ロスコは、「ナンバー28」(1962、滋賀県立美術館所蔵)の作品と、新規収蔵作品の「無題」(1969)。

「無題」(1969)

後者は比較的淡いピンクがかった画面だが、よくみると筆跡が意外に鮮明で、色ののせ方まで辿れそうである。最初素通りしてしまった、その隣のもっと大きい「ナンバー28」(205.8×193.5)を改めて眺めてみる。上から白、やや明るい茶系、暗い茶系の三本の太い色の帯が描かれている。真ん中の帯をしばらく眺めていると、色に細かい濃淡があることがつかめてくる。帯の縁取りと見えた下方の暗い部分も、隅にいくほど濃くなっていることがわかってくる。同じような色相の中でも、目は慣れてくると細やかなグラデーションを探知し始めるのである。そういえばDIC川村記念美術館で〈シーグラム壁画〉(1958)を観た際も同じような経験をしたのだった。このような、普段見過ごしている細かな差異を、しばし意識を振り向けて観察することを通じて認知していくプロセスは、ヴィパッサナー(アウェアネス)瞑想に通ずるように思う。ロスコがチベット仏教に関心があったか否かはともかく、こういった認知の作用は普遍性があるのではないかなどと考える。

寡聞にして、柴田敏雄という作家の写真作品を全く知らなかった。「山梨県南アルプス市」(2021)にいささか衝撃を受ける。

「山梨県南アルプス市」(2021)

補強のために設置されたコンクリート法面とおぼしいが、もとの斜面の湾曲のままにコンクリートの升目が激しく波打ちながら配置されている。本来の地形という、人間の手に負えない自然物に対して、人造物が、すなわち人間の手がアクロバティックな姿でぎりぎりの対応をしている。両者の格闘の結果として極めて抽象的な造形が立ちあらわれ、見る者を圧倒する。(2023年6月3日 - 8月20日 アーティゾン美術館)

※見出し画像は柴田敏雄「群馬県沼田市」(2022)

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