「3.11とアーティスト:10年目の想像」

出品作家:加茂昂、小森はるか+瀬尾夏美、佐竹真紀子、高嶺格、ニシコ、藤井光、Don’t Follow the Wind

東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年となる。以前の職場でお世話になった先生が直後に、この出来事は確実に人生を変えるものとなる、と語っていた。その言葉を聞いた場ではそんなものかな、と思ったのだけれど、今振り返ってみると、自分自身の生活もいろいろな点で小さからぬ影響を受けていることに改めて驚く。

10年という年月の間に、作家たちが何を感じ、何を考えてきたか。さまざまな視点からの考察と記述が寄せられ、必ずしも全方位的にバランスの取れたものではないにせよ、ある質量をもった姿が立ち上がってくるような展示となった。特に興味深く感じたものを挙げる。

佐竹真紀子…絵の具を何層にも塗り重ねた木板を彫ることによって描いている。力の込め方によって異なる絵具の層があらわれる。自身も仙台市出身である作家は、仙台市若林区荒浜の人々が大津波を含めた地域史を学ぶ中で江戸期の『奥州名所図絵』に至りつく場面にいあわせたという。版本は文物を同時代的に伝播させると同時に、のちの時代にも伝える機能を担った。しかも、版本制作の基本となるのは版木を「彫る」行為である。彫る営為には出来事や記憶が失われぬように刻み込むことが読み込まれる。同時に、彫る行為は陰画を作ることであり、紙などの支持体に転写されて初めて陽画が姿を表す。「Seaside Seeds」(2017)はかつて当地で行われていたさまざまな行事の思い出を綴るかのようである。街が津波によって押し流されたことで、行事の中には失われてしまったものもあろう。本作はその記憶を留めるために刻された線画だが、同時に版木と捉えることもできる。ただし、もはや陽画を作り出すことはない。近作「日和山の再会」(2020)も同様の手法によるもので、上半分が現在、下半分が過去の景色と思われ、現実と記憶との対比が明示される。

小森はるか+瀬尾夏美…「10年目の手記」が切々と迫ってくる。大切な人や思い出の場所を失いながら、嵩上げされ整備されていく町に暮らす人たちの声である。10年の時を経ても想いが途切れることはない。今の町と人々の姿を淡々と映し出すカメラワークが観るものを物想いに誘う。
「二重の町/代替地のうたを編む」からの抜粋も展示されている。4人の若い旅人が、被災地を訪ね、じっくりと町を観て、そこに暮らす人々の話を聴いた上で観聴きしたことを語る。4人は受け止めたこと、受け止めきれなかったことを、ごく正直に語る。4人とも俳優など表現者ゆえ、実は大変豊かな言葉を持っているはずである。だが、改めて観ると、言葉を注意深く選び、安易にまとめてしまったりすることなく、実に真摯に伝えようとしていることがよくわかる。

高嶺格(2012)「ジャパン・シンドローム水戸編」…
スーパー、小売店などで交わされる、客と店員の間の会話を舞台上で俳優たちが再度演じる。主として食品について、放射性物質の影響について客が問い、店員が答える。現場において何度となく繰り返されたやりとりだと思う。実際には口にしなくとも、買い物をする際、きっと心に浮かんだ疑問だろう。俳優の台詞となることで、情緒的な部分は演劇的な身振りの中に収斂される。それゆえ、観客の意識は実質的な内容に集中する。目に見えない脅威への人々の反応が、あの当時の「シンドローム」として提示される。俳優たちのごく自然な台詞回しによって、あの当時の雰囲気をよく留める作品となっている。ただ、俳優の、表現者としての特性を活かすという点では小森作品に及ばないと感じる。

藤井光(2021)「あかい線に分けられたクラス」…ジェーン・エリオットによる授業「Blue eyes, brown eyes」を下敷きにした演劇作品。メイキングとokテイクと思しきものが交錯する。クライマックスで感極まった教師役の女優が思わず涙を浮かべる場面がある。しかし、作家は、台本には涙を流すとは書いていないとして撮り直す。「楽しい授業だった?」という教師の問いかけに対して大半の子どもが「いいえ」という中、「まあまあ」と言った子がいたとしてやはり撮り直す。しかし、完成作品の全体が示されることなく作品は終わる。作家によるナレーションは、メディアによってさし挟まれる嘘に言及し、その嘘こそが差別を生む、と語る。エリオット先生の授業をなぞりつつ、「作品」あるいは「報道」として観客に示されるものへの批判的な眼差しがある。

(2021年2月20日(土)~5月9日(日)水戸芸術館現代美術ギャラリー)

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