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舞台『ホロー荘の殺人』

※ページの後半に物語の結末に関わる記述があります。

原作:アガサ・クリスティー
演出・構成:野坂実
翻訳:小田島雄志・小田島恒志

出演:
凰稀かなめ 紅ゆずる 林翔太 高柳明音 旺なつき
綾凰華 佐々木梅治(劇団民藝) 河相我聞
細見大輔 松村優 中尾隆聖 長沢美樹(声のみの出演)

はじめに

綾凰華(あやな)さんご出演ということで、久しぶりの三越劇場へ。劇場の重厚な雰囲気が相応しい、見応えのある舞台だった。

ホロー荘とそこに集う人々

舞台は、名家であるアンカテル家のヘンリー卿とその妻ルーシーが暮らす、ロンドン郊外のホロー荘、その応接間である。ある週末、ここへ親戚や友人が集まってきたところで事件が起こる。

かつて観ていたポアロやミス・マープルといったドラマ・シリーズにしばしば登場する、郊外の大きな屋敷の雰囲気がそのまま再現されている。

舞台となる「ホロー荘」の“hollow“は、「盆地、窪地」の意味で、立地の地形に由来するとおぼしいけれど、形容詞として「うつろな、空疎な」という意味を持つ。原題は"The Hollow"なので、「うつろなもの、空疎なもの」ともとれる。ヘンリエッタが作り上げた木彫像の、何をみているのかわからない目をいうものか。あるいは、アンカテルの人々が胸の内に抱えているものなのかもしれない。衰退しつつある名家、その一員であるという、虚しいプライド。

物語の中心にあるのは人物間の複雑な愛憎関係である。開始時における、思慕の方向は次のようになる。

 ヘンリエッタ → ジョン ← ガーダ
   ↑                   ↑
 エドワード  ヴェロニカ
   ↑
  ミッジ

全てが一方向の想いであり、懸想する側は満たされることがない。ガーダは夫のジョンを崇拝しているが、ジョンは妻のことを「無能な主婦、愚かな母親」と見下している。ヘンリエッタは、ジョンの愛人で彼のことを深く愛しているのだけれど、ジョンは離婚する気が全くない。若い頃、恋にひどく傷ついたためとされる。その恋の相手が、有名女優のヴェロニカだった。10年ぶりにジョンの前に突如姿をあらわし、彼を翻弄する。エドワードは幼馴染のヘンリエッタへの想いを断ち切ることができない。そして、ミッジが自分を熱い視線で見つめていることに気づかない。

第一幕の終わりでジョンが殺害されるので、彼に対する3人の女性の思慕は行き先を失う。それに先立って、ヘンリエッタはエドワードを拒絶する。ヘンリエッタ、ガーダ、ヴェロニカ、エドワードは心に大きな「うろ(hollow)」を抱えることとなる。残るのはエドワードとミッジの関係の行方のみとなるのだが…。

第一幕、第二幕とも、誰かが絶命しており、別の誰かが舞台端の電話で交換台を呼び出すという場面で幕となる。前半・後半ともある人物の死へ向かう物語を辿っていく構成だが、2つの道筋の一方は謎へ向かい、他方は解決へ向かうことで、シンメトリカルな関係を成す。無駄の無い台詞のみで巧みに展開されていく魅力的な舞台であった。

俳優のみなさん

座長は凰稀かなめさん。なんとも美しいお姿と、細やかな表情を堪能した。聡明なあまり「見えすぎる」彫刻家ヘンリエッタという複雑な人物が自然に立ち上がっていた。

ガーダの紅ゆずるさんのお姿を直に拝見したのは、2020年東京国際フォーラムでのファースト・コンサート「紅-ing !!」以来。今回はまさしく怪演で、強い目の表情と、感情の落差の表現が印象的。

ルーシーの旺なつきさんの存在感。同じくクリスティーの怪作「春にして君を離れ」の主人公を連想させる、どこまでもマイペースで、しかし実は真実を見抜いている夫人。そんな姿を見事に立ち上がらせる名演技だった。

エドワードの林翔太さん、繊細で屈折した青年を巧みに演じた。泣き出しそうなときの表情が、なんとも情けなくて◎。

高柳明音さん演ずるミッジは、今回の登場人物のうちの数少ない常識的な人物である。感情の昂った場面でも常に言葉が明瞭で、まっすぐな人物像がよく伝わる。

ガジョンの佐々木梅治さん、ヘンリーの中尾隆聖さんの重厚で滋味あふれる芝居をじっくり味わうことができた。渋いたたずまいながら、ふっと溢れるユーモアに温かみがあって、観に来て良かったと思わせてくれる。お二人とも実に良い声で聴き惚れる。

河相我聞さんの演じるジョンは、人としてどうかと思うような男なのだけれど、それでもたくさんの女性を惹きつけてやまない、人間的な魅力を備えた人物であることを感じさせる。

コフーン警部の細見大輔さん、びっくりするような良い声。さすが舞台の人と思う。いかにも仕事一徹な人物を巧みに表現していた。

ペニー部長刑事の松村優さん、ちょっと頼りない助手を好演。

長沢美樹さんはミッジの勤め先のマダム。情け容赦ない女あるじを声だけで巧みに表現。

そして、ヴェロニカの綾凰華さん。ジョンに迫る場面の凄みかたが日を追って濃密になっていった。いつものぱあっと花開くような笑顔なのだけれど、目の表情が細かい。絶えず相手の様子や状況を抜かりなくうかがう目。そして、常に自分が得になるように強引に話を運んでいく。救いようなく自己中心的、打算的な人物をくっきりと描き出していた(それにしても、ヴェロニカの人物設定はなかなかにすさまじい。ジョンに会うためとはいえ、わざわざコテージを買って待ち伏せというのは、さながら ”女ギャツビー”である)。

物語についての若干の考察(※物語の結末に関わる記述を含みます)

ガーダとヘンリエッタ

結局ガーダはジョンとヘンリエッタの関係に本当に気づかなかったのか。たぶんそうなのだろう。ヘンリエッタは聴取の際に、愛人関係になって6か月と答えているので、この半年はどうにかガーダに知られずに済んだのだと思われる。ガーダの告白を聞きながら、ヘンリエッタは悟ったはずである。もし自分たちのことが知れていたら、ジョンはもちろん自分も殺されていたにちがいない。ガーダは、ジョンの言葉と、自分が直接に見聞きしたことでなければ信じることができない。ジョンを盲信するあまり、完全に正気を失っていたのである。

ヘンリエッタは、ジョンのことを、一度でも他人の立場に立ってものを考えたことがあるのかと詰る。しかし、ヘンリエッタ自身も、己の創作欲を満たすためにガーダをモデルとする。ヘンリエッタの梨の木の彫像は舞台上手奥の部屋にあることになっているが、客席からは死角になっていて、最後まで姿をあらわすことがない。「崇拝者」と題された像の外観は、それを目にした者のセリフの中で語られる。前屈みになった服従のポーズ、何かを凝視しているようでいて、実は何も見えていないのではないかと感じられる像の目の恐ろしさ。エドワードは「凄い迫力」と言い、ミッジは「怖い」と漏らす。ジョンに至ってはなんでこんな恐ろしいものを作ったのだとヘンリエッタを非難する。彼らには、像の意味するところがわかったのである。愛する相手に盲信的、否、狂信的に服従する者、ガーダの姿。

そんなガーダの姿を「どうしても手に入れたかった」と淡々と語るヘンリエッタは、芥川の「地獄変」の絵師・良秀を彷彿とさせる(終盤、ガーダは泣き喚いていたかと思うと、次の瞬間には冷徹なセリフを平然と口にする。そんなさまを形にあらわしたのが、ヘンリエッタの彫像だったのだろう)。ルーシーが「見えすぎる」ヘンリエッタを「気の毒」と評するのは、そういう狂気さえ漂わせるところを述べたものである。

アンカテルとエインズウィック

ミッジはエインズウィックの風景を描いた絵を前に「エインズウィックがこの屋敷を支配している」と語る。アンカテル家の血を引く者たちの心情を端的に述べた言葉である。栄華を誇った日々が完全に過去のものとなり、消滅を待つばかりとなったアンカテル家にとって、エインズウィックは単なる地所にとどまらず、家そのものの最後の象徴なのだ。

アンカテル家の者たちは、エインズウィックにしがみ付かざるを得ない。端的なのがルーシーで、あの家屋敷の行く末のみを案じている。エドワードは当主なのだが、ヘンリエッタへの想いを断ち切ることができず、悶々としている。

ミッジは経済的自立をめざすが、結局はエインズウィックに取り込まれることを選ぶ。近代的な個人主義を伝統的な家が呑み込んだ瞬間である。が、伴侶となるエドワードは極めて腺病質で、精神の安定を失いがちである。ミッジの思い過ごしがもとで2人の気持ちがすれ違った時、エドワードは激しく動揺して自死を図りさえする。旅立っていく2人の未来は必ずしも明るいものとは言えない。

そして、ヘンリエッタは、幼い頃を過ごしたエインズウィックに狂おしいほどの憧憬を感じている。しかし、あまりにも「ものが見えすぎる」人間であり、広い外の世界を知ってしまったために、閉塞していくアンカテルの家の中にとどまっていることにもはや耐えられない(このことは、ルーシーを「残酷な人」と評するあたりにあらわれている)。外の世界を象徴するのがジョンである。彼との時間は、ロマンティックなものであると同時に、アンカテルの外に繋がる希望でもあったろう。それゆえ、エインズウィックに籠るエドワードを拒絶し、エインズウィックには二度と戻らないと宣言する。しかし、ジョンを喪い、外への道は閉ざされてしまう。

結局アンカテルの人々は、エインズウィックとともに消えてゆく運命にある。

ジョンとガーダ

ジョンもガーダも非アンカテル、すなわち他所者にすぎなかった。ジョンは地位を得たことで上流社会にアクセスできる立場にある、いわば成り上がりであった(貴族を毛嫌いしており、エドワードのことを「ごくつぶし」などと謗ったりもする)。この2人は、ヘンリエッタ以外のアンカテル側の人間から見れば、どうでもよい存在だったのである。

全編を締めくくる、ルーシーがガーダに言うセリフ「貴女は運が良かったわね」は、さまざまな解釈が可能だろう。「運が良かった」という言葉自体に含まれているニュアンスとして、あまり恵まれていない状況の中にあって、幸運を得たということがある。それゆえ、次のようにごく単純にとっておきたい。

"あなたは、ジョンを手にかけ、人殺しとなってしまった。だが、その中にありながら、運を手にしたのだ。なぜなら、あなたはジョンの命を奪うことで、彼を自分1人のものとしたと思い込むことができた。でも、実はジョンはヴェロニカと情を交わしただけでなく、長くヘンリエッタとも深い仲だった。そんなことを知らないまま死ぬことができた。2人目を殺さずに済んだのはまだあなたに一定の運があったからだ"

ルーシーのこのセリフはまた、命を落とさずに済んだヘンリエッタに向けられたものでもあったのではないか。

ジョンもガーダも、アンカテルに関わらなければ命を落とすことはなかったのかもしれない。結果的にこの家に拒絶された形で命を失う。本作品は、一種の階級格差の物語とも言えるのではないだろうか。(2023年5月3日〜5月8日 三越劇場)

スタッフ

舞台監督:井草佑一
美術:仁平祐也
照明:松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
音響:竹下亮
衣裳:熊谷美幸、前野里佳(K&Mラボ)
ヘアメイク:YM factory
演出助手:大崎綾乃
アンダースタディ:本谷史織、牛島敬也
宣伝美術:デザイン太陽と雲
宣伝写真:山岸和人
WEBコーディング:阿波屋鮎美(ブラン・ニュー・トーン)
制作・票券:style office
グッズ進行:坂東亜美(ABC&SET)
プロモーション:キョードーメディアス
パンフレット取材・文:榊原和子
上演ライセンス:ティモ・アソシエイツ
アシスタントプロデューサー:あきやまくみこ
プロデューサー:北川翔子

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