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105歳まで生涯現役で、人のために尽くした 医師、日野原重明 偉人伝.2


人間とはそもそも「病む」生き物であり、必ず欠陥を抱えて生きています。そのことを踏まえたうえで、今日という日を健やかに生きればいいのですー日野原重明ー


こんにちは。moeです。
今日は、日野原重明医師についてご紹介します。2年前の7月に105歳でお亡くなりになるまで、生涯現役医師として、メディアに出られ、著書の執筆もされ、診療にもあたられていました。子供の頃に、母が、「聖路加病院の日野原重明先生がテレビで言ってた。」と健康法について話してくれた時に、日野原先生について知り、先生の言葉は、看護師を目指すずっと以前から、身近にあったような気がします。そのためか、日本国民のお医者様。という気が勝手ながらしておりました。90歳の時に出版した『生き方上手』は、120万部以上のベストセラーを記録しています。


日野原重明ーひのはら・しげあきー
1911年10月4日 - 2017年7月18日(105歳没)
肩書きは、日本の医師、医学博士

医師を目指す

山口県生まれ。牧師の子供として生まれ、10歳の時に、母親が尿毒症で命の危機にあった時に助けてくれたような医者になって病弱な母のような患者さんたちの面倒をみたいという心が、後に医学を志した動機になりました。1932年に京都帝国大学医学部に現役合格しましたが、翌年結核にかかり、1年間寝たきり状態となりました。90歳を過ぎてから、このような言葉を残しています。

「病気になるのは辛いことですが、のちのちの健康を考えれば悪いことばかりではありません。たとえば私は医学生のころ結核にかかりましたが、長く病床に伏した経験があるために、患者さんの気持ちがよくわかるようになりました。90歳を過ぎたいま、他人の何倍もの仕事をこなしていられるのは、結核を克服することで病気全般に対する免疫力、抵抗力が高まったからだと思っています」

そして、1941年に東京で勝負をしたいと、聖路加国際病院の内科医となりました。

「生活習慣病」の命名者


当時、高血圧や糖尿病などは『成人病』と呼ばれましたが、これでは患者は“成人になったら、かかっても仕方のない病気じゃないか”と思ってしまう。でも『生活習慣病』という名称なら、不規則な生活が高血圧や糖尿病といった病の原因となることがわかり、“生活習慣を改めよう”との意識が芽生えるだろう。という理由でした。日野原医師は、熱心に厚生省(当時)にかけあい、病気の名称変更を実現しましたのです。

よど号ハイジャック事件で生き方が変わる

日野原医師は、58歳の時、福岡で開かれる内科医学会に出席するため、羽田発の日本航空機「よど号」に乗り合わせ、「よど号ハイジャック事件」の人質となってしまいました。

「これは大変なことになった、と思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか、という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈を取ろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を測りました」
 「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しているんだなあ、と納得したのです。つくづく医者なんですね」日経ビジネス日野原重明の「生き方教室」より抜粋

尊敬していたウイリアム・オスラー医師の「医師はどんなときでも平静の心を持つべきだ」という言葉を思い出し、とにかく落ち着こうと自分に言い聞かせたと言います。

乗り合わせた日野原氏と東京大学医学部の吉利和教授は、犯人に頼まれ、乗客の診察にも当たりました。
3日間機内で拘束されたのち、日野原医師らの人質はやっと解放されました。

「金浦空港の地面を踏んだ瞬間、僕は足の裏からビビビッと霊感のようなものを感じたのです。アポロのアームストロング船長が月から地球に戻ったときも、あんな感じではなかったかと思う。自分は生きているということを実感しました。このいのちは『与えられたいのち』であると思ったのです」

よど号ハイジャック事件をきっかけに、内科医、研究者としての名声を求める生き方をきっぱりとやめ、「これからの人生は与えられたもの。残りの人生は人のために使おう」と決意されました。

「予防医療」の啓蒙

よど号事件から3年後の1973年、予防医療を広めるために、財団法人ライフ・プランニング・センターを設立し、自らその理事長に就任しました。

予防という考えは当時の医学界にはまったくありませんでした。病気を治すのが医師の仕事と信じる人たちにとって予防医療など、商売にならず受け入れがたい。しかし、日野原医師は周囲の反対を気にもかけず、「予防がいちばん大事。正しく医学知識を教えれば、かなりの病気は防げる。それは患者にとっても社会にとってもいいことだ。」と強く主張しました。

 「ライフ・プランニング・センターの目的は、国民の一人ひとりに“健康“についての理解を深めてもらい、生活習慣の改善によって『自分の健康は自分で守る』ことができるように一人ひとりを動機づけ、成長発達、老化の過程を通しての全生涯にわたって、生活の質を豊かに保ってもらうことです」


地下鉄サリン事件


東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病院として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年に建設しました。これには、批判も多くあったようです。しかし3年後、地下鉄サリン事件の際に、ロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能しました。当時83歳で院長であった日野原医師が陣頭指揮を取り、事件当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施しました。聖路加国際病院の対応が、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がったとされています。


いのちの授業

晩年、91歳から、104歳まで、全国の小学校をまわり、「10歳の子たちに思いを伝えたい」と出張授業を行いました。日野原先生はレモンや玉ねぎを並べて、心臓の大きさはどのぐらいか問題を出し、こぶしぐらいの大きさだと説明し、子どもたちは聴診器で心臓の音を聞き合いました。
「心臓は生きるために必要だけど、そこに命があるわけじゃない。これから一番、大切なことを言います。命とは、人間が持っている時間のことです」そして朝から何をしたか、子どもたちに聞くと、ご飯を食べた、勉強したと声が上がりました。「どれも自分のためだけに時間を使っていますね。これからはだれかのために時間を使ってください」と語りかける授業でした。

105歳、延命治療は一切希望せず、自宅で家族に見守られながら、息を引き取りました。


日野原医師ほどの人物であっても、次のような言葉を述べています。
『死にゆく患者さんを前にして、私はいつも医学の限界を知らされます。どんなに最先端の医療をもってしても、死を征服することはできません。「いのち」に対して、ますます謙虚になるよりほかありません。』
また、4000人もの患者を看取ってきた100歳の現役医師であった日野原医師だが、生涯に渡り支え続けてくれた妻静子さんの死を前に、「医師の私は今、病床の妻を前に、おろおろしています。」と、目の前に迫る妻の死を覚悟できなかったといいます。

この言葉を読んで、「ああ、それでいいんだ」と胸のつかえがおりるような思いにさせてもらったことがあります。
仕事で落ち込んだ時、看護の仕事が辛いなと思った時に、日野原先生の著書を読むことにしています。失礼な言い方かもしれませんが、何を読んでもまずはとにかく、癒されるのです。そして、読み終える頃には、また明日も頑張ってみよう。と思わされます。著書の文体もあるのでしょうか。お会いしたことがないのに、看護師である私に、話しかけてくださっているような気持ちになるのです。

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