生き返ると極楽について いっちょまえに語ってみる


とにかく疲れて帰った日は、熱い湯に浸かるのが一番だ。
疲労困憊、凝り固まった筋肉を、湯船でたゆたむお湯たちはやさしく受けいれ、包み込んでくれる。
思わず「生き返る〜」などと口から出てしまう。
そして次に続く言葉は「極楽、極楽」であることが多い。
その時、ふと思った。
どうして「生き返った」後に、死後の世界の「極楽」へ行くのだろうか、と。
生き返ったのならば、そのまま「よし、元気になった! 」というセリフが出てくるはずだが、どうしてせっかく生き返ったにもかかわらずあの世に行ってしまうようなセリフを吐くのだろうか。
不思議だ。なぜだろう。


「極楽、極楽」というセリフから想像するに、そこはいわば楽園で、つまりは天国。心地の良い快楽というか、多幸感に満ちている世界に自分がいると思うが故に発する言葉だ。
現世よりも、より素晴らしい世界なわけである。
だとしたら、入浴がそんなに幸せな世界を感じるほどの幸福度なのであれば、ざぶんと湯に使ったその瞬間に口から出る言葉は、「極楽〜」になるべきではないだろうか。


しかし、どうだろう。一声目で「極楽」という人を、私はあまり見かけない。
やはり大体は「生き返る〜」だとか「染みる〜」とか、主体は人間視点で、人間界での傷や疲れが回復している、という意味合いの強い言葉を発する。
なんだか、『疲れない』と『痛みを知らない』と味わえない幸福、という気がする。

では、第2声目に「極楽」が出てくるときの身体、心理的状態はどういったものだろうか。
一声目の時よりも、だいぶ身体も温まり、程よく心にも快楽に対する耐性ができて、余裕が生まれている状態だ。「ふむふむ、これはいい気持ちだな」という、ほんの少し俯瞰的な状態だ。そんな状態で人は「ハァ〜極楽だ」という言葉を発することが多いのではないだろうか。

以上のことから、人という生き物は、極限的な疲労状態の場合であると「生き返る」旨の言葉を発し、ある程度余裕を持ちうる状態の場合であると「極楽」といってあの世へ行く。
そう考えると、全く関係のない所で、通じる新たな発見がある。
空がうっすらと白む前の、密やかに静まる、とっぷりとした深夜。若い女性がよく「死にたい。」とつぶやく。
「死を望む状態」というのは、つまり「ある程度余裕を持ちうる状態」であると上記で論じたが、これは「死にたい」レディーにも当てはまるのではないだろうか。
これは個人的な偏見であるが、「死にたい」と発する女性のほとんどが、「構ってほしい」だけのエセ自殺願望者であると感じる。
真に精神を病み、心が壊れすぎて生活もままならない人間は、死ぬことすら億劫で、「ああ、死にたいけど、死ぬために道具を用意したり、死ぬ場所を考えたりすることが、死ぬことよりも面倒くさい。そんな意欲ない」という考えを持っているパターンが多いような気がする。
つまりは「死にたい」と公の場に公表するくらいの状態は、風呂に浸かって「極楽、極楽」と発する精神状態と同じなのだ。余裕があり、自分自身を俯瞰して見ることができている。

これはあくまで私の個人的な、勝手気儘なる考えで、そうではない! そんなことはない! と反論される方もいると思う。
十人十色という言葉もあるように、人がいる分だけ、考え方も感じ方も違う。
なので、この論じは、誠に私の独自的な考えである故、そう真剣に捉えることなく、スナック感覚で流していただきたい。栄養価などありません故。

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