Don't feel ...Think!

近頃、全ての日本人に強く言いたい。
考えろ。惰性の延長で、日々を垂れ流すな。
昨今の若者は欲がない、だとか冷めている、とか言われているが
果たしてそれは若者だけに括られるものだろうか。
団塊世代であろうが、戦争体験をした老人であろうが、
どこかに諦め精神を持ち合わせ、集団の中のぬるま湯こそが至福と思っている。
日本人の考えの中にそう言った【集団=正義】が浸透している。
日本という国、そしてその中の集団、家族について繙き、
多数決こそ真実とされている今日に拳を打ち付けていきたい。

***

さて、世間が盆や正月など、長期的な休みに近づくと、
映画館ではやたらと【家族愛】をテーマにした作品が放映される。
家族の絆は絶対に壊れない。
いざという時に何よりも強い力を発揮する。
そう言った非科学的な、何の根拠もない、
ふわっとしたエネルギーで無理やりハッピーエンドに落とし込む映画を、
私も過去何度も観てきた。
そもそもなぜ【家族は大切】なのだろうか。

『世界にたった一人だけのお父さん、お母さんよ』

と当たり前のように言うが、
例えば電車に乗った際に隣に立つサラリーマンだって、
世界に一人だけの存在である。
この世に同じものなど存在しないし、
どのような命だって大切で尊いものだ。
そう反論すると

『あなたを大切に育ててくれた人は、ご両親でしょう』

と言われるのであるが、
親が子孫に飯を食わせるのは生き物として当然の行為である。
例外はあるものの、多くの野生の動物たちはネグレクトやら、虐待などしない。
生物として親が子を育てるのは、
モラルだとか、愛とかそういう情で語るべき存在ではない。
ごくごく普通の自然現象だ。
それなのに、人間はその情を【大事】とのたまう。

家族という集団は小さな国だ。
親という統率者がいて、それの元に子供という民が存在する。
民が国家に逆らうことは反逆を意味する。
統率者は民を洗脳し、反発心を芽生えさせないよう、
躾という名の調教を行う。
家族という国から出られる許可が出るのは成人をしてからだ。
財力も知識も乏しい子供は、
この国を抜け出したくても、それを行うだけの力を持ち合わせていない。
そのことに対しての憤りや、やるせなさが
反抗期という形で現れ、他の国へ焦がれるのである。
家族の中で親による【これが正義である】という躾が強行されれば、
その国の中ではそれが正義であるし、それを破れば罰則がある。
反抗したとしても、子供には金銭力も、外の世界の知識もないから、
国から見放されては生きていくことができない。
故にこれに従う。

家族の中で一番我慢をしているのは子供だ。
怒りという感情があっても、
年はもいかない知識では気持ちを
こと細かく伝える術を持たないし、
食事や住処で親にねじ伏せられる。
 
『誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ』

と声を荒げる父親も少なくはないだろう。
そんなもの

『生まれたくてこの家族に生まれたわけではない』

と言いたくなる。

この
『望んでこの家に生まれたわけではない』

というセリフをよく目にするが、
この文体は、決まってその後に他者からの

『でも、あなたをここまで大事に育ててくれた大切な家族でしょ』

という言葉とセットになっている。
とても自然な流れで、親への不満のエネルギーがいなされ、
親がいかに大変か、という力に置き換えられてしまう。
あまりのナチュラルさに丸め込まれてしまいがちだが、
それで納得してしまうくらいならば、その子供の疑問はその程度だ。

『それはそうだけど、子供は絶対親に服従しなくてはいけないの?』

と疑問を持ち続けることができるのならば、
その子供は自分が大人になった時、
子孫に家族を強要しない親になるはずだ。

人々はなぜここまでして家族にこだわるのだろうか。
血が繋がっていることの重要性とはなんだろう。
血が繋がっているからといって、
趣味や思考が同一なわけなどない。
家族であろうと、心の奥底で相手が何を考えているかなどわからない。
家族であろうと、血が繋がっていようと、
それは自分とは別の生き物。
つまり他人だ。他人に対して、自分の意思を押しつけて、
相手の心を殺す権利など、誰も持ち合わせてなどいない。
それは大きな驕りだ。

親は子供を支配し、監視する。
自分の都合のいいように育てあげ、
教育という名の調教をし、自分好みの服を着せ、
過去自分ができなかった習い事を無理やり習わせたりする。
子供は嫌とは言えない。
口では抗議することもあれど、渋々従う。
家族という国家から追い出されては死んでしまうからだ。
故に、思春期を経て、性を意識し、
外の世界とのつながりが強く濃くなってき頃、
初めて自分という意思や概念を構築することができるようになる。
洗脳から覚めたような、清々しい気分になるはずだ。
いったい今まで何をしてきたのだろう、
と愕然とする者もいるだろう。
赤子の頃から、思春期を経て成人するまでに、
子どもの価値観も、好みも、風貌も変わる。
それにも関わらず、親は幼い頃の子供を引きずり、
それこそが真実の姿であると断言する。

『昔はそんな子供じゃなかった』

当たり前だ。成長とはそういうものだ。
家族という箱の中に勝手に詰め込まれ、
衣食住を共にしていれば、自ずと情は生まれるものだが、
それを足枷に、外の世界を遮断する愚か者になってはいけない。

昨今、【反抗期を迎えなかった子供】が多いと目にするが、
恐ろしいことこの上ない。
反抗期とは、子供が大人になるために必要な、大切な期間だ。
外の世界に触れ始め、自分が今まで教え込まれてきた概念が
違うことに気がつく、気がつける時期。
それを経験していないということは、
考えることや周囲との違いに気づけない、
他の世界を理解できない人間に育ってしまったということになる。
自分の子供が反抗期を迎えなかったと感じたのならば、
それは非常に危険なことであると冷や汗を流さなくてはならない。

家族の中に存在する間【疑問】を持つことを忘れてはいけない。
赤子から成人に至るまでに、考える習慣がなくては、
社会に出た時に絶望と、始終つきまとう【わからない】に襲われる。

『どうして上司はこんなことを言うのだろう』
『なぜこれを行わなくてはいけないのだろう』

まず疑問を持つ。おそらくそこまでは誰もができることだ。

『そうか、さっきの指示には、きっとこういう意図があるに違いない』
『憶測だけど、この会社ではこれが暗黙のルールなのだろう』

と、深掘りできる柔軟さが生まれるかどうかが肝心だ。
近頃の若者は忍耐がないと言われるが、
それは彼らに想像力、柔軟力がないからだ。

『なんでこんな指示をするんだよ。むかつく』
『訳がわからないこと言われた。もうやりたくない』

と、自分の意にそぐわなかったことに対して、想像しない。考えない。
そして、感情に支配され、怒りに身をまかせる。
このような短略的な社会人になってしまったのは、
家族という集団の中にいた際に疑問を持たず育ってきたからだ。
家族という流れに身を任せて、
すべての意思を親に預け、自ら考えることをやめた子供。
それが現代の若者である。

彼らは、自分からアクションする術を知らないため、
文句ばかりのたまい、解決方法を探らない。
つまり考えない。
そして、惰性的に仕事をこなし、流れるままに生きている。
やりがいも持たず、次の休みのことばかり考え、
休み明けには仕事に行きたくないとぼやく。
働くことは、辛いことだ。
だが、そんな辛い中に、少しの幸せや楽しみを見つけることができれば
仕事は辛いけれど、楽しいものに変わる。
考えるのを止めた若者たちには、それが見出せない。

『辛い』

それだけで終わってしまう。 
このような悲劇は、家族というマインドコントロール教育の成した所業だ。
若者が、働くことに価値を見出さない国になってしまっている。
先進国である日本にとって、これほど危機的なことはないだろう。

***

日本の子育てに対する環境は劣悪だと言える。
昨今女性の社会進出に対し、国は補償や、手当など増やしていこうというスタンスで動いているが、そんな中で待機児童が多いのが現状だ。
日本において、人手不足は深刻な課題だ。
子供のいる母親にすら働いてもらわないと回らない社会。
猫の手ならず母の手も借りたいほどの困窮状態なのである。

『子育てママさん大歓迎』

などと謳われたキャッチコピーはありとあらゆる場で目にするが、その根底には

『うちの会社はこんなに女性が働く環境を考えていますよ。だからうちで働くべきだ。特にこれと言って他社と違う取り組みはしていないけれど、今の時代働かない母親なんて遅れていますよ』

という押し付けがましい思惑が隠されている。
表面を彩っているだけのハリボテ職場環境だ。
考えてみるとわかる。
同じ年代の女性社員が二人いるとしよう。
一人は独身、もう一人は既婚者で子供がいる。
母親社員は夕方までのショートタイム出勤であるがために、夕方過ぎに残された仕事は、誰か別の者が対応しなくてはならない。
もちろん、子育ての大変さはわかる。
だが仕事を勝手気ままに、自分の家庭の都合で早引きされて、自分に降ってくるという現実は確かに存在する。
それに対して、誰も悪くない、誰も責めることのできない不満は、心の隅に少しずつ積みかさなり、怒りや、ストレスへ変貌する。
常識、モラル、人情。
これによって、子育てに奮闘するママさん社員を罵倒など、とてもできない。
だが、どうしたって

『早く帰れて羨ましい』
『仕事を他人に押し付けられていいな』
『私の案件ではないことをどうして私が』

 と考えてしまうのが人間の性だ。

頭ではわかっている。
子供を育てながら、仕事をすることがどんなに大変なことなのか。
しかし現実、自分の目の前に広がる、
他人の仕事に人は疑問を持たずにはいられない。
もし持たないのだとしたら、それは人間として、前頭葉が機能していない異常者であると思う。

つまり、【子育て】と【仕事】は同じベクトルで考えるものではないのである。

『私と仕事、どちらが大切なの?』

というセリフ、実際に口にする人がいるのかどうかは甚だ疑問だが、これは夫婦間でいかなる時も問題としてあげられるものではないだろうか。
前述したように、子育て、つまり家庭と仕事は別物だ。故にこのようなセリフを吐く女性は例えるならば、

『立川談志と、千代の富士ってどっちが強い?』

と聞いているようなものなのだ。
どちらも日本を代表する伝統芸能であるが、落語家は肉体を使って戦うことなどしないし、相撲取りは言葉巧みに語ったりしない。

『どっちが強い?』
『どっちが面白い?』

などと聞かれても、別物すぎて答えようがないのだ。

家族と仕事、つまりこれも比べようがない、比べられても測りようがない存在であることに人々は気がついていない。
なぜこのような間違った認識が生まれるのであろうか。
一概に日本政府、および今までの日本の文化、風習のせいである。
元来、女は家庭に仕う存在であった。
稼ぎに出かける旦那に栄養のある飯を食わせ、心地よい睡眠を促す場。
社会へ出ることなく、家庭内を整える役割。
今もまだ、妻のこと【家内】と呼ぶ風潮が残っているのは、かつて妻が家庭内の調律を図るものであったが故である。
妻という立場は仕事ではない。賃金が発生するわけでも、ボーナスが出るわけでもない。そんなことは誰もが理解している。
だが家庭内の役割だとか、共働きなどという、昭和初期とは違う今らしさのエッセンスが加わると、途端に境界線があやふやになってしまうのである。
つまり、かつての日本の認識、妻は家を整える者、という概念の残り香と、子供を育てながら働く環境が十分ではない日本政府の制度、これがいけないのである。

妻、女。それは男を支える者。
そういった根拠も、生物的な数値も科学的根元も何もない、不確定であやふやな感覚。それが日本人の思考の土台に絡みついているが故に、

『旦那より稼ぎが多いだなんて、旦那の気持ちをもっと考えないのか』
『子供を保育所に預けて遅くまで仕事なんかして、母親失格』

などという悪妻のレッテルを貼られる。
遅くまで仕事をしている父親にはなんのお咎めもなく、身ごもった母親や、幼子を持つ母親だけが、あくせくして働いているにも関わらず否定、批判される。

先進国であるにも関わらず、女性の社会進出が遅く環境が整っていないのは、この古臭く、時代錯誤な考えが官邸にも、世の大人にも残っているからである。
そして、このような【異常】な考え、カビの生えた思考が多ければ多いほど、それが正義となり、それが常識となり、それが【普通】となってしまう。

 『周りがそう思っているからそれが正しい』
 『みんなと同じが正解』

そんな、思考をやめた集団。
催眠に陥った塊が、日本の家庭環境を劣悪なものにし続けているのである。

『私も働いているというのに、子供の世話は私ばかり』
『夫は仕事仕事で、子供の面倒なんか一切みない』

そういう主婦が日本にどれほどいるだろうか。数えきれない、または全てと言っても過言ではないほどの主婦が同じ感情を抱いている。
そのような現状、現実があるにも関わらずそれを口にしてしまうと、批判されてしまう組織。それが今の日本である。
ママ友達とお茶などすれば、ほとんどが旦那の愚痴である。そしてそれを聞くママ友も、深く同調し、ランチを食べる手を止めて、不満を言い交わすのだ。
そこまでした怒りエネルギーがあるのならば、それに対してもう一歩進んで欲しい。

 つまり、【考え】てほしいのだ。

 『なぜ、私はこんなに腹が立っているのか』
 『何が苛立ちの原因か』
 『旦那ではなく、もっと深いところ。何かもっと根元がいけないのではないだろうか』
 『自分の怒りの矛先はずれていやしないだろうか』

そういった疑問を持って欲しい。
そして、真の怒りの中心を発見した時、原因を根絶やしにしようと行動を起こせば、今の日本を変えることができる。
ひとりだけで日本を変えるのは到底難しいこと。
しかし、世の中の主婦のほぼ全てが同じ悩みを抱えているのであるならば、その力は巨大なものとなり、日本の憲法のひとつやふたつ、簡単に変えられるはずだ。

 『思ったところで、そんな時間などあるわけがない』

そう感じる主婦が大半なはずだ。
だが、日本全国の主婦の、ほんの小さなアクションが積み重なり、その膨らんだエネルギーが更に周りを揺さぶり、気がつけば計り知れない大きさの、影響力ある強大な力となる。
考えることが、どれほどの力を持っているか、人々は自覚するべきであるのだ。

***

数年前からSNSの影響力が目覚ましいものとなっている。
写真・動画投稿サイトであるインスタグラムは、自身の撮影した画像などをアップできる。
世界中から【いいね】と呼ばれる承認ボタンをもらうのが嬉しくて、情報を発信する人が多い。

この【いいね】ボタンは、かなりの中毒性を孕んでおり、自分を認められた証である【いいね】が少しでも多く欲しいがために、見た目はかわいいがさほど美味しくもないパンケーキ屋の長蛇の列に並んだり、わざわざ車を出して、こぢんまりとした自家製パンを買いに行ったりする。
モラルを欠いた写真をアップする者も現れるほど、人々は承認欲に毒され、他人より自分はすごい、という見栄の中で自分の人生満足度を計っている。

そして恐ろしいことに【結婚】も見栄の物差しで計っている者が多いのだ。
本来、結婚というものは男女お互いが一生を賭して相手に寄り添い、支え、笑い、泣き、苦しみ合うパートナーであることを誓う契約である。
どんなに苦しくて、死んでしまいたくなるような困難に遭遇しても

『あなたを見捨てない。それほどまでにあなたを愛している。側で共に生きたい』

そういう感情の元するべき行為である。
故に、他人に

 『あいつはやめたほうがいい』
 『あんな奴のどこがいいのだ』

などと言われても

『私にとって、あの人の代わりになる人などいない、唯一無二の人』

と言えるはずなのだ。
それこそが真の愛であり、その愛は結婚しうる最もらしい理由だ。

ところが、若い女性の多くが持ち合わせる結婚願望の中には、
その真実の愛が含まれていないのである。

結婚したいと言う女性に、現在パートナーがいるかと問うと

『いません。でも結婚はしたい』

 などと、訳のわからないことを言う。

 『今付き合っている彼と、ずっと共に生きてゆきたいから、結婚は憧れるし、したいです』

というのならば理解出来る。
相手もいないのに、なぜ女性たちは結婚したがるのだろうか。

つまり、前述のパートナーのいない女性の求める【結婚】は、

『他人に自分は幸せだと思われたいから結婚したい』

という見栄が軸になっている結婚願望なのである。

『女性にとって最高の幸せは結婚をすること』

などというアメリカなどで発すれば、
なんて古の考えだろう、と驚かれるような認識が日本にはびこっている。
結婚をしていない女性は【行き遅れたかわいそうな人】【売れ残り】などという差別的認識され、そう言った考えを多数が持ち合わせているが故に、それが常識となり、当たり前となり、正義となっている。

インスタグラムでは【いいね】が多くつけられているほど、
幸福度が高いと識別される。

『いい年で結婚していないなんて【いいね】がもらえる訳がない、大問題。一生の恥だ。【いいね】が欲しい。周りに自分は幸せ者だと思われたい』 
『だから結婚したい』

そうした概念が無意識のうちに基盤となり、結果的に結婚に落とし込まれた者が大半なのである。

昨今のウェディングプランは、女性である花嫁が主軸となって行う。
入場曲、テーブルコーディネイト、引き出物など、女性の意見を基に男性が少々口を挟むような流れになっている。

『結婚式の主役は花嫁さん』

と当たり前のように思われているが、花婿さんだって主役であるし、二人揃わなければ、それは結婚式ではないのだから、おかしな話だ。

そもそも結婚式とは、覚悟を決める儀式なのだ。

『相手を一生守る』
『相手を一生見捨てない』

私たち二人の、その覚悟を証明いたしますので、本日お集まりの皆様は
その証人です。と伝える場である。

新郎新婦が主役であることに変わりはないが、
二人の喜びと幸せを振り撒くイベントではなく

『これから二人で人生を共に歩んで参りますので、いろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします』

ということを証明する場なのである。
近頃、挙式をあげないカップル、神の前で誓わず、互いの知人を集めて二次会のみのパーティーをする人も増えてきた。
結婚式そのものもカジュアル化し、カフェやレストランで式をあげる若者も多い。
だが、本来の結婚式の概念を見失いつつある今、新郎新婦の【愛】と【覚悟】がブレはじめ

『おめでたい幸せな私たち』を振りまく【いいね】の押し売りセレモニー』

が蔓延してしまっているのだ。
そのような一時的な快楽の元で結婚をすれば、この先どのような末路になるのか想像に難くない。
【真実の愛】を探し求められずに、刹那的な幸せの延長、見栄の結婚を行った二人の間に亀裂は生じるはずだし、互いに暮らし始めて相手の嫌なところも次々と目についてくるはずだ。

私は問う。

『あなたはパートナーを本当に愛しているか』

と。

『憎いこともある、許せないこともある。でも、この人以外、私にはいない』

あなたの選んだパートナーは、そういう方だろうか。
一点の曇りもなく、そうだ、と言い放つことができるだろうか。
 
ある主婦の嘆きを耳にした。

『旦那が学生時代の男友達と遊んでばかりで、家族の時間を大切にしない。休みの日に、どこどこに行きたいと伝えると、その日は前から友人たちと予定があるからいけない、と言われた。家族を優先せず、友達を取るなんて神経を疑う』

そう息荒く語った。
何故、友人より家族を大切にしなくてはいけないのだろうか。
例えば、妻が臨月で予定日より前倒しで陣痛が始まり、病院に担ぎ込まれたとする。
病院に旦那の姿はなく、連絡を取ると

 『今日は友達との先約があったから、そちらにはいけない』

と言う。

『イかれた精神の、気が狂った男だ。ほとほと神経を疑う』

これならわかる。

妻の出産と、友人との約束を天秤にかけ、どちらが重いかなど、幼稚園児でもわかる。

では、先ほどの主婦の話に戻る。
主婦は別段、妊娠もしていないし、ましてや事前に、旦那にどこどこに行きたいからその日は予定を空けておいてくれと、アポイントも取っていない。

かたや旦那の友人は

『では次の休みの日にどこどこに行く予定があるから一緒にどうだ。
予定は空いている?』

ときちんと確認しているはずだ。
それに対して旦那は

『その日は特に予定も無いし大丈夫だ』

と返答するだろう。
なぜならば、誰からも、
妻からもどこかへ行く予定も約束も聞かされていないからだ。

【家族】の中に、暗黙にはびこるこの

『家族の予定は皆が一つ残らず共有しなくてはならない』

と言う概念がこの問題を生む。

『あなたがどこで誰と何をするか私は知らない。妻に知らせないとは何事か』

と怒りをあらわにする妻を
果たしてパートナーにしたいだろうか。
誰だってそんなに息の詰まる思いなどしたくはないだろう。

互いの人生を共にするわけだから、これから死ぬまで側で暮らすわけである。
いちいち、身を縮めるように相手の顔色を伺わなくてはならない家庭に帰りたいだろうか。
そんな家にいて休まるだろうか。
働いて、休日になれば家族の機嫌を損ねぬよう立ち振る舞い、
自分の好きなことばかりにかまけると家族を優先しないと罵られる。
かといって仕事をしないと稼ぎが少ないとぼやかれ、
家庭の中で居心地の悪い思いをする。

様々なパターンがあるが、サラリーマンの生活を、
平日は出勤退勤を合わせ朝八時から夜の九時までとし、
帰宅後眠るまでの時間を夜の九時から午前零時にしたところ、
サラリーマンの自由な時間は、帰宅後の三時間ということになる。
その時間に、食事と風呂などを含めると、残ってせいぜい一時間。
週に五日働いているのならば、平日の憩いの時間はトータル五時間しかない。
そんな時間の中で、趣味に没頭などできるわけもなく、
上司や、部下と飲みに行くこともあるだろう。

酒の席であれど、そこは会社の関係なのだから、
友人知人と飲み交わす時よりも、楽しさは減る。
心の底からのうまい酒ではないだろう。
そのような状態の中で、勤めを終えたのならば、
休日くらい好きなことをさせて欲しいと思うのが普通だ。
ごくごく平常な精神だ。

確かに、休日すべてを友人との時間に費やされては、
もっと子供と一緒に出かけて欲しいだとか、
家族全員でどこかへ旅行へ行きたくなると思うが、
だからと言って結婚しているからという理由で
百パーセント家族に尽くす必要もないはずだ。
そんな制約は、真実の愛の上で発生などしない。

すなわち、真実の愛を誓ったもの同士の結婚で
このようなことは起きないのである。

真実の愛を感じた相手なのだから、言ってしまえば

『どんな状態のあなたでも好き』

な者同士の結婚である。

『悪態を吐く、だらしがない、でもそれに勝るほどあなたが好き』

なのである。
愛してやまないパートナーが平日あくせく働いて、
休みの日に友人と遊びに出かける。
帰宅してすごく楽しかったとニコニコ話す顔を見たら

『ああよかった。愛する相手が楽しそうで何より』

と思う。
それが相手を心の底から愛している者の平常な感情だ。
それを
『自分は家で料理を作ったり、掃除をしているのに、
あなたは友達と遊び呆けて腹立たしい』
などと感じる状態なのならば、
それは相手を心の底から愛していないことが故である感情であるから、
あなたは真実の愛の上で結婚していないということになる。
見返りを求める行為を愛とは言わない。
愛とは無償で行う行為だ。

だが、初めのうちは確かに真実の愛を誓った者同士の結婚だったが、
互いにそれがずれ始めるケースも多々有る。
そのズレを生じさせるものが、つまりは【見栄】であり、【周囲と自分の比較】である。

誰々さんの奥さんは、ジュエリーを買ってもらっただとか、
誰々さん一家は海外旅行へ行くそうだとか、
自分と他人とを比較すると、自分がまるで大切に扱われていないのではないか、
私の人生は幸せではないのではないだろうか、
周りから私の家族はかわいそうなどと嘲笑されているのではないか、
と考え始める。
すると、途端に愛と愛に磨耗が生じ、
いびつな形へと変貌して、大きなひずみが生まれてしまうのである。

この見栄の具現化、塊こそSNSである。
SNSは我々を二十四時間常に監視し続け、眠っている時間を除けば、
常時世界と繋がっている状態にさらされている。
真実も虚実も、見境いなく漂うウェブの海で、見栄に溺れた人々は、
いったいどうなるのだろう。
少なからず、一番の被害を受けるのは子供だ。
親の見栄で構築された家族の中で否が応でも生きていかねばならない。
そういった子供たちが見栄の数だけ存在している恐ろしい世界になっているのである。

***

子供こそ、この世の中で一番偉い存在であると断言する。
前述に記した通り、子供には財力も権力も知識もなく、
親に掌握された世界で生きていくためには従い、
意思を殺し、力に屈する生活を余儀なくされる。

愛情が冷め、喧嘩ばかりする両親が

『離婚すると子供がかわいそうだから、それだけはしない』

と言う。
こんなにも親の勝手気ままな意見がはびこっているのが日本の現状だ。

子供のためと言いながら、自分のことしか考えていない。
父親と母親のギスギスした家に、子供は毎日帰らねばならない。

食卓を囲めば、両親は沈黙し、否が応でも子供が場を盛り上げねばならず、
はたまた母親をかばうために声を荒げたり、父親の愚痴を聞いてあげたり。
なぜ自分が望んで選んだわけでもない両親の
お膳立てをしなくてはいけないのだろうか。

それはもちろん、子供には帰る場所がこの両親の住む家しかないからだ。
毎日毎日、来る日も来る日も両親の生み出す重苦しい空気に耐え偲び、

『あなたの為に離婚はしない』

とまるで自分の為だから、それを受け入れろと脅され、
そうしているうちに自分の意思も、望みも麻痺して、
何が正解なのか、わからなくなる。
自己表現を抑制された子供は、
暴力で自分を表す手段を取ったり、薬に手を出すことだって考えうる。

子供が逃げられないのをいいことに、子供に全てを押し付け、
子供のせいにして、非情なプレッシャーを与え、
【家族】という組織に鎖でがんじがらめにする。
それが親の発する【あなたのため】という言葉の真実だ。

よく

『私はこんなにあんたもために色々とやってあげているのに、
なんで無駄になるようなことをするの? 』

と子供を叱る親がいる。
それは親の我儘であって、親が勝手気ままに子供に与えているだけだ。

自分の行為に見返りを求めるものは教育でも、愛情でもない。
ただのエゴだ。
特に女性に多いこの【見返りを求める愛】は
日本人に非常に多くに浸透しており、
それは【希望】や【期待】という言葉に言い換えられ、
日常の中によく潜んでいる。

日本人はとりわけこの【希望】と【期待】が好きだ。
だが、【希望】も【期待】も実にマイナスな要因が含まれているし、

『こうなるといいな』

という妄想と、予測不可能な未来に対する不安を打ち消そうとして気がつかない素振りをする、現実逃避要素が大半を占めている。

『今は辛いけれど、希望を持って打開しよう』

という言葉には、

『現状、どう考えたって、挽回するには途方もない時間と労力を要するけれど、もしかしたら奇跡のような何かが起こるかもしれないから、その奇跡を信じて頑張ろう』

という意味合いであるし

『勉強熱心なあなたの、今後の活躍に期待しているからね』

というメッセージの中には

『沢山勉強して、素晴らしい大学に受かって、官僚、もしくは医者なんかになってくれないと教えた甲斐も、育て甲斐もないから、ちゃんと合格してちゃんと就職しろ』

という圧力が含まれている。

これこそつまり【プレッシャー】であり、子供達はそんなもの、
欲しくもないのにさんざん注がれて、少しでも振りかざすものならば

『大人に対してなんだ、その態度は』
『こんなにしてやっているのに、なんと恩知らずな』

などと自分の意思を全否定され、個を殺されるのである。

『子供はいいよな』

などという大人がいるが、
全くもって何もわかっていない脳足りんで
【考える】ことをやめた駄目人間である。

人間の中で一番偉いのは子供だ。
家族を守っているのも子供だ。
子供は非常によく人のことを見ている。
大人がそれに気がつかないのは、子供がまだ自分の意見や、
感じたことを、情報として発する術を持たないからである。

それは言語能力であったり、コミュニケーションの知識、
感情のコントロールや、表現方法だ。
もし、子供の感じ取ったエネルギーを翻訳するような機械やアプリケーションがあれば、驚くほど的を射た言葉が発せられるだろうし、大人が【子供だから】とバカにしていたことも、きちんと言語化された時には畏怖する程の意見が飛び出てくるはずだ。

子供のフィーリングは非常に鋭く、
それはいささか本能的で、動物的感性に近い。

人間という生物は、動物であるにも関わらず、
自分たちは動物ではない、
知的生命体であると無駄なプライドを首から下げている。

だが、そこにかまけて変化から遠ざかり、
惰性というぬるま湯に浸かっている為、動物以下の下等生物に陥ろうとしている。
前頭葉が腐りかけている人間は家畜同然だ。
無駄なプライドや見栄がある分、余計タチが悪い。
そんな見栄と惰性に侵されていない、
染まりきっていない子供たちこそ、
我々人類が、家畜へ堕ちることを抑制する薬なのである。

 だが、その抗生物質【子供】も、現在の日本の【家族】という制度の中で、
殺され、腐らされ、改造、洗脳、抹消され、
子供から下等生物に育て上げられてしまうのが現状だ。

子供が勉強嫌いで、勉強をしない。
テストでいつも赤点を取る。
そう言った子供は【ダメな子供】とレッテルを貼られるが、
勉強をしない子供というのは二つのパターンに分けられる。

一つ目は、快楽に溺れやすい、一時的な欲に弱い子供だ。
この子供は現実逃避型で、嫌なことを後回しにして、真実を見ようとしない。
世の中の人間の全てにこの現実逃避思考は少なからずあるし、
むしろこの感情がない人間は、人間ではなくロボットであるか、
何か脳の機能が欠落している。
目先の欲に支配されている子供は、
もちろん宿題なんてものはしないし、親に勉強しろと言われても取り組むことをしない。

だが、それは幼い頃の一時的なもので、
多少成長していくと、

『確かに宿題をやらないと楽チンだが、その後の見返りが辛い。あとで倍以上になって苦労する』

ということを覚え始め、
欲が十割を占めていたものが、次第に八割、六割と、減少する傾向にある。
欲が九割を占めたまま大人になる者も、一割まで減る者も様々だ。

さて、二つ目のパターンであるが、
これはこの感情を持ちうる子供と、
全くもってその感情を持ち得ない子供とで別れる傾向にある。
一つ目のパターンは、おそらく
この世に存在するすべての子どもに当てはまるものである。
しかしながら、今から述べる、
【常に何故だと自問自答する疑問系子供】は、
すべての子供に通ずるわけにいかない。
【疑問系子供】とは、つまり

『これを勉強して一体何の意味があるのか?』

と思う子供である。
自分の将来を見据えた結果
『絶対に私はこれを勉強しなくても困らない。つまりはこの勉強にあてる時間は無駄でしかない。だから勉強をしない』
そういった思考を持つ子供。
すべてがすべてに当てはまることはないが、
そのようなきちんと【疑問】を抱くことのできる子供は、
苦手な科目は赤点であるが、得意科目は満点を取ったりする。
つまり、惰性で勉強をしていないのだ。

学生時代、先生や親に言われるがまま勉強をして、
与えられるものだけをこなしてきた優等生ほど、
社会に出た時マニュアル的にしか仕事ができず、
柔軟性のない大人になる。
または、非常に面倒な仕事を、前の人がそうやっていたからと
それを馬鹿丁寧に引き継いで、何時間もかけて仕事をこなしたりする。

それが疑問系子供であった場合

『どうしてこれはこんなに時間がかかるのだろう』
『ここを省力しても、支障はないから、ここを減らそう』

と短縮する術を見出して、効率よく仕事をテキパキとこなす。
つまるところ、疑問系子供には【想像力】があるのである。
そして【想像力】を培うためには、常に【考え】る癖が必要で
流れに自分を任せず、常に疑い、
自分の目で見たものしか信用をしないような
【自己】という確立した意思を持っている。

有象無象の信じてやまない【正義】に疑問を抱き、
果たしてそうであろうか、と訝しげに見つめ、想像し、調べ、
自分の納得のいく見解に落とし込む。
そしてそれが多数の言う通りであれば、
胸を張ってそれに従うし、そうでなければ、断固違うと主張する。
それだけの強さも必要だが、それに見合うだけの情報収集も、
証拠も揃っている上で違うと主張しているので、
そうやすやすと壊れたりはしない。
惰性に負けない意志の持ち主。それが疑問系子供である。

【正義】の刷り込みと集団の同調が、
日本の子供たちの将来の良し悪しを決める訳だが、
それは子供の頃に根付かせる習慣ではなく、
大人になってからでも十分疑問を持てる人間になれる。
むしろ、大人にこそ常に疑問を胸に抱いて生活してほしい。

この国では、意見の良し悪しを集団で判断する。
多くの人が、それを赤だと言えば、それが理論上や数値的に青だったとしても、
青であると認めないと【異常者】として世界から排除されてしまう。
そして彼らは、不特定多数に選択しやすいよう、
カテゴライズをすることを好む。

つまりは、その物質に【名前】をつけたがるのである。
昨今マイノリティーだとか、
パワーハラスメントだとか、事実婚など、様々な名称の言葉が存在する。

しかしながら、そう言った行為や思考は、
そんな名称がつく前から存在していて
簡単にカテゴライズできないが故に、見て見ぬ振りをされてきたのである。

全くもって驚きを隠せないのだが、世間には
言葉としてそれが存在しないと、現実問題でそのような行為が行なわれていること、そのような気持ちを抱く人がいる、ということに
気がつかない人が多く、
大変遺憾であるが、
パワーハラスメントも、マイノリティーも、事実婚も、
最近生まれた行為や思想だと勘違いをしている者が少なくないのである。

つまり、日本人は自分と接点のないことに対して

『フィクションである』
『自分には関係のない世界』
『ありえないもの』

と認識を下す種族なのである。

テレビのバラエティーや、ドラマは物語の出来事で、
ファンタジーのようだと感じるように、
ニュースを見てもどこか遠い世界のこと、自分とは違う次元の夢物語、
と思い込んでいる。 

東日本大震災の起こった時期になると、テレビ番組でやたらと関連映像や特番が放送されるが、彼らと接点のない人々は、その映像が流れた時だけ

『そういえばそんなこともあった』

と思い出し、番組が流れなくなると途端に忘れる。
日々の生活の中で、自分に直接的な被害がないと、人は簡単に意識を手放す。

終戦や、災害の日付が近くなると、やたらと放映し始めるテレビ番組は非常に偽善的で、腹正しく、被害者に対する冒涜であると感じてしまう。
被害のあった人々にとって、今でも一日、一瞬たりとも忘れられない出来事をまるで記念日のように取り立てて、お涙を頂戴し、善人のように振る舞う行為が腹立たしい。

数年前に、二十四時間テレビで総じて行われる、
障害者と芸能人との友情や努力を密着する企画に対し、

『俺たちを食い物にするな』

と障害者から苦情があり、
その生の声を番組でオンエアして一世風靡した出来事があった。

NHKの障害者の情報番組でそれは行われ、
多くの障害者と、その家族から同調する声が上がった。
【悲しい出来事】と勝手にカテゴライズされたが故に、
ほんの少しニュアンスの違うもの、実際にはそこではない別物であるのに、
ひとくくりにされてしまった出来事などが歪みを生んで、
怒りや、不満、衝突を生み出す。
どこにも属さない場合の存在は、世間から排除され、なかったものにされる。

現実で存在しうるものを、見ないふりや、揉み消して、
集団が安心するカテゴライズの上で生活をしている
日本人の未来は明るいだろうか。

曲がりなりにも先進国であるのだから、
いちいち名前や媒体の箱を作って、
そこに何でも詰め込むような悪行を直ちに取りやめるべきである。

私の言う【疑問】をもてということは、
つまりその箱に違和感を感じろということと同意着であり、
言い換えるならば、イワシの群れになるなということでもある。

『みんながそちらへ泳いでいるから、ついていこう』

そう言った考えを捨てなければならない。
集団が流れ着いた先に、サメがいたらどうする。
その責任は誰が持つのであろう。
しかし今や日本人は政府という集団の流れの中で、
サメに向かって誘導されている。

皆が皆そうだから、と個々の意思を尊重しないことも異常である。
これは私の話になるのだが、私は花束が嫌いである。

『花束をもらって嬉しくない人などいない』

などという言葉を聞くが、正直な話、私は花束をもらった際

『ああ、ゴミを貰った』

と思ってしまうのである。
道端に咲く花や、木々になる花は好きだ。
あれは生きているし、自生しているから誰かの世話になることもなく、
自ら成長し、花開き、朽ち果てるから潔い。

しかし、花束というものは、根っこから裁断された瞬間から
死んでいく末路しか待っていない。
水をこまめにかえて腐敗を遅らせようと必死になっているが
その最もたる美しい状態から、さらに美しくなることもなく
次第に萎れ、腐り、朽ちる。

花束は、言い換えるならば【花のゾンビ】だ。

それならばドライフラワーにしたらどうかと言われたこともあるが、
あれは【花のミイラ】ではないか。
よくもまあ、ミイラを部屋に飾ろうだなんて思うものだと
信じがたい心地になった。

私の場合はこの花束問題であるが、人それぞれ、好みも趣向も違う中で

『こうしておけば間違いない』

などと断言できるものなど存在しえない。
女だからこう、男だからそれ、子供だから、若いから。
そう言ったカテゴライズで判断をする時代はもう終わりを迎えなければならない。

今日の個々人の主張の大切さや、男性でも女性の心を持つ人や、
同性を愛する人びとが、公の場に現れ、
それを認知しなければ人でなしであると言えるようになった世界で、
人を表面だけで分別する行為は侮辱であり、殺人に似た非道な行為だ。

黒人だからといった理由で暴力を受けたりすることと同意だ。
そしてそれはマイノリティーや女性だけにとどまらず、
子供から老人まで、一人一人の人間に対して行われるものであるし、
そう言った環境が整備できていないのであれば、
名前分けなどせず、互いに互いを束縛するようなことをしなければいい。
他人に対して意見を述べなければいい。
そもそも周囲の意見に同調などしなければ済む話であり、
それですべて解決する。

集団という粘着性の孕んだ道連れ行為を行わなければ、
人々は、カテゴライズや、差別から抜け出せる。

【家族】だから一致団結しよう、だとか【子供】なんだから親に従えだとか、
そう言った時代は埃っぽい低俗な考えだ。
そのことに気が付かなければ日本は猿並みの知能の集団になるし、
他国にいいように使われて、使い捨てにされる。

他国の意思に、何も考えず流されて、
みんなそうしているから大丈夫と
何の根拠もなく信じ込み、散々搾取された後、ゴミのように扱われ忘れ去られる。

疑問を持たないものの末路は、気がついたときにはサメの腹の中だし、
そのことに気がついた時には全て終わっているのだ。
 

***


来年、東京五輪が開催されるが、これが実に日本の現状を表すいい例えになる。
東京五輪を心の底から望んでいる人間は総じて少ない。
何故ならば、五輪にかまけるほどの余裕も、時間も金銭もないからである。
東京五輪に費やされた莫大な資金、税金を待機児童対策に当ててくれ。
過酷な労働に対する対価にしてくれ、
通勤通学のラッシュはなんとかならないのか。
保険料、医療費、消費税‥。
いくら挙げても尽きることのない問題で山積みの日本で、
東京五輪なんぞに時間と金を費やしている場合ではないはずだ。

日本政府はしきりに東京五輪をプッシュして、
集団催眠にかけようと躍起になっているものの、
さすがに国民もそれは無茶だと気が付いている。
あまりにも、自分たちの周りに負債がはびこっているからだ。

しかしながら、これは【疑問】を持ついいきっかけになるし
この東京五輪を火種に、どんどん日本そのものに対して
訝しげな目を持って生活してほしい。
 
さて、では私が抱く政府が頑なに推し出す東京五輪への疑問の結論を述べよう。
つまりあれは戦争の代わりに行われる金稼ぎだ。
借金大国日本で、金を大幅に稼ぐ解決方法は戦争しかない。
早い話、韓国あたりと戦争でも起こして荒稼ぎしたいものだが、戦争を経験した人々が日本にまだ多く存命する中で、それは行えない。
安倍首相的には、できることならトランプ政権のうちに
火花をあげたいのが本音だろう。

そういった現状で偶然にも数年前に
猪俣前総理が東京五輪をもぎ取った。
これを使わずして何を使う。
戦争ほどは稼げないが、五輪という勢いに乗じて国民をマインドコントロールし、一つの思想に集結させて日本を操ろう。
そういった思惑がプンプン漂っているではないか。

だが、日本国民もそのような軍事的国家から
幾分か離れた生活をしてきたものだから、異常に気が付いている。

とりわけ、自分の周りに関して問題がせめぎあっているから、感覚が鋭いのである。
加えてスマートフォンで気軽に世界と繋がるようになり、
情報が凄まじい速さで広がり、
簡単に手に入るものだから、なかなか催眠にかかりづらい。

 SNSは悪い影響力もあるが、
こう言った洗脳の麻酔にかかりづらくなるというメリットも存在する。

 この状況下で、模擬戦争である東京五輪に対し、
疑問を持って生活しているかどうかが、この先の日本の未来を変える。

 そもそも、五輪はスポーツの祭典であり、
戦でも勝ち負けでもなく、むしろそこから真逆の位置に存在するものであるにも関わらず、戦争として据え置かれてしまっている。
東京五輪が成功するかどうかなど、対して興味もないが、
そんな下心見え見えの行いで、真実のスポーツマンシップが発揮される気などさらさら思わないし、日本の選手たちも大いなる稼ぎのプレッシャーで実力を出し切れないのではないだろうか。

スポーツ選手たちは国からの支援で成り立つ職業であるから、
そこを裏切るような行為はできない。
五輪の一番の被害者は彼らといえよう。
日本のスポーツ選手は、東京五輪という名の戦争へ赤紙を渡された軍人である。
人身御供のような存在であり、それに対して文句も、逃げ去ることもできず、もし身を隠したものならば、異端児、国を捨てた非情なやつ。人でなし、と罵られる。日本という国から消し去られてしまう。東京五輪とは、そういった意味合いで行われるということをしっかりと国民は把握しなくてはいけない。

 【疑問】と【結論】と【意思】が、自分を集団の中の一部から、コントロールされている空間から抜け出る方法である。

集団の意思こそ正義であると信じ続けてきた日本で、それを悪用している政府の存在が浮き彫りになった。
世界中と簡単につながるネットワークツールがそこかしこにある環境の中、
かつては簡単に洗脳できた国民が【疑問】を持つようになった。
確かに、まだ考えることが浸透していない箇所も多いに存在するが、
来年行われる東京五輪が大きな着火剤となることは間違いない。


***


大きな力で我々は操られている。
その流れ、惰性の中にいると、知らぬ間に自分という存在がゴミのように扱われてしまう。もしかしたら、すでに自分は何かの腹のなかにいるのではないか、と目玉を鋭く光らせて訝しってほしい。
そうすれば、国家はもちろん、その延長で、日々の生活、家庭、子育て、仕事、男女、すべてに対して惰性で生きてきたことに気がつくだろう。

そして、その流れの中で何も考えていなかった自分の愚かさ、
恐ろしさにハッとするはずだ。
気が付く年齢も、時間も関係ない。
気が付けたことこそが前進であり進化だ。 
それをきっかけにどんどん考えればいい。
人間は前頭葉を持つ生物なのだから。
この前頭葉があるが故に、憎しみや、争うも起こってしまうことも確かだ。
前頭葉を駆使して、大人数を自分の手中に収めようと企むものもいる。
そういった力に抗うには己も前頭葉を使わねば負けてしまう。

すべては自分の意思と、生き様を貫くために、考えろ。
安心に身を委ねるな。
安定に成長はない。
集団に染まると人は死ぬ。
人ではない、集団の大きな塊、一つの物質にカテゴライズされる。
個々は殺され、一つの人として、意思として、皆そう思っている、と扱われてしまう。
人として生まれ、そのような扱いをされて良いだろうか。
我々は生き物のカースト上位に君臨しているとのたまっているではないか。

ならばそれに恥じないくらい、姑息に、他の生物にねたまれるほど、
意地汚く、醜く、姑息に生きるべきだ。

人間なんてものは、地球のがん細胞なのだから、
潰しても、潰してもまた湧いて出るくらいのしぶとさを持って生きろ。

今の日本は地球にとって、せいぜいインフルエンザ程度の存在だ。
湿度や温度が上がれは消滅してしまうような存在だ。
しぶとくしつこく生きよう。
そのためには【考えろ】。
考えなくして、人間を語るなど笑止千万なのである。

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