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生きる意味・生きる価値

「生きる意味ってなに?」
「わたしには生きる価値がない」
Twitterでよく目にするつぶやきたち。

しかし残念なことに、
私に生きる意味を問われても明確な答えは返せない。

なぜなら、私の考えすぎかもしれないけど、
その背後には「自死していい理由」を探しているように思えてしまうから。

「生まれてしまったからには生きて行くしかない」というのが私なりの答え。
しかし、生きる意味を問う人にそれは納得ができない答えでしかない。

人間、生まれた瞬間から最終的に待っているものは死しかない。
だから、いかに死ぬか、すなわちそれはいかに生きるかだと考えている。

だから、生きて行くことは日々の積み重ねであり、その一日一日をどう生きていくかをそれぞれが考えることしかできないと思う。

豊かさと裏腹のもの

現代は豊かになった。
高度成長期のように、給与を手に入れて家族を養い、動産・不動産を手に入れて豊かに暮らすというモデルケースが描けなくなった。
だから、現代の人たちは物質的に豊かになった分、内面へと意識が向かう。
何かの折に
自分がなぜ生きているのか、
生きていかなければならないのか、
自分が生きている価値とは何だろうかと
考えてしまうのだと思うと感じている。

ただし、「生きる意味・生きる価値」への問い。
それは心が健全な人には思い浮かばない発想で、心が弱っている人こそ抱えがちな悩みである。

何かにつまずいた、
何かに行き詰った、
人間関係で疲れ果てたなどなど。
そういった時に「自分とは」と深く考え、「自分が生きる意味、生きる価値」という難問なのだと思う。

そういう状態だからこそ、こちら側が生きる意味・生きる価値を提示して、前を向いていけるようになってほしいのだけれども、それが思い浮かばなくてこのところ悩んでいる。

何回か死に損ねた私も同様だった。
私は生きていていい存在なのか?
私が生きることが誰かの役に立つのか?
私の生は不要ではないか?
そんな渦の中にいた。
しかし、毎回失敗したから生きるという選択肢しか残らなかった。

希望どおり死ねなかったのは、見えない何かからの「生きて何かを成し遂げよ」というメッセージなのかもしれないと感じている。

今はそれに衝き動かされて生きている。
具体的には、うつやACの自助会の開催だったり、うつ体験者としてのカウンセリングだったりといったことになる。

どんな人にも生きる意味があり、生きる価値はある。

どんな人でもこの世に存在していいし、自ら自死を選ぶ必要はない。

しかしそういった悩みを抱える人は、意味や価値について明確な答えを望んでやまない。

私の場合、家族に生きることを望まれ、それを受け入れ今がある。
「生きている意味」「生きている価値」をひたすら追い求めている時には見えなかったものだ。

しかしながら悩む人(特に自死を考えている人)には、「誰かの為に生きる」というのは、まったくもって響かない。
求めているのは自分単位であって、家族でも友人であってもその思考に入り込む隙はないからだ。

人間に生まれるということ

世界にはたくさんの命にあふれている。虫から小動物・植物、そして人間。

いっそ人間に生まれなければそんな悩みもなかったかもしれない。
空飛ぶスズメを見れば、餌をとることと種の存続しか考えていない。

でも、現実として人間としてこのように生を受けた。
悩む生き物は人間だけであろう。
人間と言う高等動物に生まれたがゆえにそういった悩みも伴ってしまった。

悩みの中で

悩みの渦中にいる時は、生きる意味や生きる価値がないように思えて、そこから抜け出せないでいる。

そういった人たちになんと声をかければいいのだろう。

「意味が見出せなくても、あなたは生きる価値がある。」
生きる価値があるからこそ、虫でもなく他の動物でもなく、ましてや草木でもなく、人間として生まれてきたんだとしか伝えようがない。

信じるとは人が言うと書く。
だから、意味や価値が見出せなくても生きてていいんだよと伝え続け、それを信じてもらうしかない。

今は闇の中を彷徨い続けていても、必ず闇で光を見つける時が来る。
その光に向かって歩き始め、闇夜抜け出す時が来る。
それを信じてもらうしかないのだ。

闇からの解脱

悩みの闇から脱するのに、確実な方法は一つしかない。

絶望の底につき落とされて、これ以上下がないというところにたどり着いたら時だ。
なぜなら、あとは這い上がるしかないから。

生きる意味と生きる価値を自問し続け、絶望の底を舐めてこそ自力で這い上がることにベクトルが変わる。

あるいは、そこに行きつく前に「はしご」見つける人もいるだろう。
絶望の中にあっても、実のところ、はしごはいくつかはある。

しかし、そもそもあったのに気がつかなかったか、あっても使おうとしなかったかのいずれかであろう。

はしごをそれを登らない選択をし続けている、
はしご見ないことにしている。
そういった人が多いのも悲しいが事実である。

「はしご」こそ思考の転換のチャンスそのものなのだけれども、自分の負の思考に凝り固まってしまうと、本来ある物さえも見えないし、信じない。

そのはしごは「途中で崩れてしまうかもしれない」とか、
「自分悪い方に導いているものかも」と疑って登ろうとしない。

そして、絶望の闇の中に身を置いている。
というか、そうすることしかできないといった方が正しいだろう。

健全な思考へ

健全な思考で考えるならば、生命を維持するために「働き報酬を得て食べて行く」という、生きていくことは極シンプルなこと。

または、親や家族とのつながりを紡いでいくために生きているのだとも言える。

現に私も愛猫二匹おいて先に逝くことはできない。飼うときに命を全うするの見届けると約束したから。

娘も息子もいる。病気を経て今でこそ私はかなり元気になっているが、彼女らや夫にはいまだに気にかけてもらっている危うい存在。
しかし、そんな状態であっても彼らは生きていてくれればいいと願ってくれていた。
繰り返しになるが、正直に言うとそれは病いの最中では見えなかった思いだった。

病気の霧が晴れてきて、ずっと変わらずにあった願い気づいたと言った方が正しい。

そんな経験があるからこそ、今、生きている意味や価値を探している人に即効性のある言葉は見つからないのだ。

だから、絞り出てくるのは、
「意味が見つからなくても生きている価値はありますよ」という言葉だけだ。

命といってもこの世界にはいろいろあり、羽化した途端叩き潰される蚊もいれば、生きたくても病気や飢餓で生きられない人もいる。

これを持ち出したところで生きる意味を探している人には逆効果でしかない。それも知っている。

「下を見て満足しろということか?」という答えが返ってくるだろう。

彼・彼女らはそんなことは充分分かっている。
そうではなくて健全な体を持ちながら、心が止んでしまっている自分を攻め、悔い悩んでいるのだから。

もっと自己中になっていい。
私は自分らしく生きる権利があると大腕を振って生きられるようになってほしい。

死は平等、今できること

そうこう言いつつ、悩める人にも私にも、いつ事故などで死が訪れるかわからない。
だからこそ一日一日、もっと言えば一瞬一瞬を悔いなく生きて行きたいものだ。

人と比べて足りないものを数えるのではなく、思考停止の状態でも今手にしているものを今一度、見つめて直してみてもらえないどろうか?

SNSの台頭で、リア充とか持ち物とかパートナーとか、いやでも人と比べてしまう環境が今の日本にあふれている。

しかし、そのリア充は本物だろうか?

持ち物で自尊心を満たすのは本当の自尊心を満たすことにはならない。
むしろもので自尊心を満たしているというかわいそうな人たちなのだ。

パートナーだって、どんなに仲睦まじく見えてもいずれは破局するかもしれない。
ましてやパートナーを所有物としか思っていなければ、ブランド物で自尊心を満たすのと何の変りはない。

であるならば、人と比べるのは虚しい作業でしかない。

比べるなら、昨日の自分と今日の自分を比べよう。
Luckyを見つけられる能力、
与えられた環境に感謝できる謙虚な姿勢、
困った人に手を差し伸べることができる慈悲深さ。

そういうことが一日で一つでもできたか確認してみませんか?
それこそが健全な比較と思う。

最初は無理やりかもしれない。
そんな日々の作業をだまされたと思って、6週間続けてみてください。
6週間経つと義務感はなくなり習慣になる。

できればそれはノートに。
アプリでもいいという人もいるけれども、心理学でいうところの外在化としてはノートに書くほうが効果的だからだ。

手を使い、目を使い、読み上げ、耳で聴きとたくさんの感覚を使うことで記憶に刻まれやすくなる。そういった効果がある。

生きる意味、生きる価値。
答えを出しあぐねているのなら、心が増幅して、身体が伴っていないアンバランスな状態であることには間違いない。

「無理」と思っても、無理やり「いいことみっけ」のノートのほか、身体をお日様の下にさらし、動かしてみて。
バランスが取れると、心の暴走は止まるから。

最後にお願いです。
生きている意味・生きている価値がわからなくても今日を生きてください。



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