新幹線事件について

遠征の際によく使う東海道新幹線内での事件でもあったため

とても他人事とは思えない事件が起きたなと思いますが

その少し前に話題になっていた虐待死の件に関しても

思うところあり

真面目に話をしようと思います


ネット上でこうゆう問題を扱うのもある意味全然安全ではないんですが

当然ながら被害者側の観点でのコメントはTwitterなどに溢れかえっていると思いますので

今回は加害者側の感情に寄り添った側面でお話します


この事件は”親殺し”という問題と深く関わっていると推測します

彼が無自覚に殺意を向けていたのは多分 親


そう仮定して どうして親を殺したいほど憎むのかについてですが

心身共に健康的な子供の家庭は その子らしく在るということを親が許容しているのです

つまり親の「○○な子になってほしい」というエゴで縛ることなく

発達障害であっても それを個性として受け入れています

それは産まれた瞬間からその子に人権があるということを肚の底で理解しているということでもあります


生まれた時から親を恨んでいる子供はいません

成長の過程で その強い感情が芽生えてくるのです

親殺しの事件で出てくる背景として多いのが

親が医者や教師など社会的地位を確立している家庭のお子さんで

”とてもいい子だった” ”あの子がそんなことするなんて” 

といった周囲の反応です

これはどうゆうことかというと「いい子を演じていた」ということになるのですが

外に対していい子を演じていた だけではなく

家族に対してもいい子を演じていた

つまり 本来の自分の姿でいる場所がなかった ということなんですよね

ではどうしていい子を演じる必要があったのか


それは「生きるため」です


子供はその家庭に依存すること以外生きる術を知りません

ですから親の言うことに必要以上の反発ができないのです

必要以上

その度合いは各家庭によって違いますが

「いい子を演じなくてはいけない」ということは

子供として自然な言動 例えば泣き叫んだりわがままを言ったり

大きな声を出して走り回ったり

それを善くないこと 恥ずかしいこと ダメなこと 

として子供に教育している場合

子供は自分の中から湧き出る「寂しい」「怖い」「泣きたい」「大声を出して遊びたい」「これが欲しいと駄々をこねたい」などの素直な感情を押し殺して

親が望む姿になり

それを褒められると嬉しいから 常にその姿でいようとします

当たり前ですよね 大好きな人ですから


子供らしくいること また発達障害などで他の子供と同じことができないことに対して親が

「普通の子に見えるように育てなくては」とか

「医者の息子として恥じない子にしなくては」とか

その子本来の個性を潰してでも社会に適応するように育てようとする

これは子供を愛している愛していないなんて論争では決着のつかない話で

愛していないわけではまったくないのに

親がこのことに気が付かない 気が付けないくらい 自分と他(子)との区別ができなくなっている それを”愛である”と錯覚してしまうのです

実はこれは 子供の将来のため と託けた 自分たちの体裁のため 

親の体裁にとって都合の良い子供に育てようというエネルギー

それはダイレクトに子供に伝わります

自分らしさを潰される=殺される 

自分らしさというものを生かせないまま生きているなら 人形と同じ

感情の強制抑圧は裏の虐待と思っているのですが

親側も自覚は皆無であり外傷や争いなどの外的証拠がないために家族と同居している間にこの事実に気が付くことは難しいと思います

体罰やネグレクトなどのほうが表立った虐待として扱われていますが

どちらも意図的にしているわけではなくそうゆう意味では同類

そして本当に恐ろしいのはこの感情の強制抑圧です


小さい子供は親が大好きなので 褒めてもらえるように

愛してもらえるように 笑ってもらえるように 

従順に努めるのです

ほんの4歳や5歳の子供が

自分の中から沸いてくる素直な感情に蓋をするのです 


これはたいがい反抗期の頃に怒りとして爆発します 

感情に蓋をして既に10年近く経つんですから当たり前です

この時に非道なことをする子供と親が 互いに自分の汚い面も全てを見せて本音でぶつかり合ったならここで子供の非行は止まるのですが

ここでも”善き親”を演じて子供と接した場合その距離はどんどん広がるばかりで

子供は「いい子に見える演技」を辞められないまま溜めた感情が爆発して

その怒りを恋人等の他者に投影し殺人事件などに発展するのです


蓋をした感情が怒りとなって自分に向けば自傷するようになるし

外に向けば人を傷つけようとする

それだけの違いで

自殺=他殺 他殺=自殺 

他殺 それが親であろうとクラスメイトであろうと

その殺意は自分が許した対象になるだけ

そのすべてが自分に許せず溢れだした時に 無差別 になるのです

また若年のうちは 自分はダメだ できない と思ってきた自己卑下の感情とその怒りがある種化学反応を起こし

”自分にはこんなに凄いことができるんだ” という承認の意味を含むこともあります

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件は 後者の印象を強く感じます


物心ついた時から 親にさえ本音を言えない

そんな子供が自分や他人を傷つけないことの方が奇跡だと思います

逆に本来の自分を全て見せても安全な場所を持っていれば

こんなことは起きない

それは いくつになっても同じ


だからいつも言うように 加害者は元々被害者

被害者はいつでも加害者になれるし その逆も然り

そしてそんなふうに子供を育てた親もまた 元被害者なのです

虐待死の事件についても同じく 親自身が被害者であり

自信がなく 子供に虐待する夫を咎めて捨てられることが怖いという

その過度の見捨てられ恐怖の根源は その生育環境にあるはずです

この連鎖を切るために 子供を産まない人がいる

それを少子化少子化と騒ぐのも大きな勘違いだと思います


また「妊婦様」の件に関しても

このような表現を外に向かってする人は心を開ける相手が居ないのです

例えばあなたが女性で 子供が欲しいけれど

病気で産みたくても産めなかった その辛さを誰にも理解してもらえないと思っていたら

身籠ったその女性の発言に対して 心の底から共感できるのでしょうか

そう 言わなくてはいけない

こんなことを感じてはいけない

だから言わないだけ という人もいるはずです 必ず

誰かの発信した言葉についての論議というのは

発言した人の責任ではなく 受け取り側の感じ方の責任です(良い悪いでなく)

同じ事象や意見に対して千差万別の感じ方があって それは自由で守られています こう感じてはいけないというようなことはなく

それを「事件」が起きるまで抑圧することのほうがよほど危険です


どうして自殺や他殺が起きるか

それは感じた本音に蓋をして溜め続け爆発を起こすから

犯罪を減らそうというのなら

新幹線の中に警備員を配置する前に

自分が心の底で何を感じていて どう思っているのか

それがどんなに非人道的なことであっても

自分だけはその本音と向き合ってあげなくてはいけない

ひとりひとりがその訓練をすることが先です







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