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虐待される子供は不幸なのか

厚かましい心理記事もメインサイトに書くようになってしまったため

こちらがあまり機能しなくなっていますが

音楽まったく関係ない記事なのでこちらに書こうかなたまには

いつの日もどこかで行われているであろう児童虐待

どうしてなくならないんでしょうか


子供には”親と離れて暮らす”という選択ができません

そしてどんな親の元に生まれてくるかも天の采配・・そう考えると

虐待する親の元に生を受けたということがただの運であるということになるわけで

それは大変不幸なことであると人間は考えます

子供に罪はない というふうに


私もここ最近の言葉で言うところの「毒親」の元に育ち

結構最近まで自分の半生を呪って生きてきたのですが

ある時気が付いたことがありました


”人生は自分で選んでいる”


選んでいるって 人間的な思考が引き寄せの法則的な何かで選んでいるのではなくて

人間として生まれてくる前の段階で何を経験するかを決めてきている

ということです


自分の若年期を思い返すと 10~12歳ぐらいの時だったかな

「もっと複雑な環境でたくさん苦労をしたい」と漠然と考えていたことを思い出すんですね

ドMなんでしょうか 

(楽に恵まれて生きていくことを恥ずかしく感じていたのですが

それは恐らくお嬢様育ちの母を馬鹿にしていたためかなと思います)

その時イメージしていたのは

そのたくさんの経験を多くの人に語る自分の姿でした

そして文字通り現在の年齢では詰め込み過ぎだろと思うほどのたくさんの経験をして

あまりの生きずらさから人の心理というものを探求し 真理に辿りつき

こんな記事を書くようにまでなりました

 

ということはこんな話ができるようになるためにわざわざ人生詰んだということでもあると思いますよね


それって10歳やそこらの子供が お花屋さんになるの~みたいな感じで考えられる未来なんでしょうか


人生は何ひとつコントロールできない


と私は思っています

例えばすごく子供を産みたい人がいて でも産まないうちに産めない年齢になってしまった

そうゆう場合って

「何かをしたから または何かをしなかったから産めなかった」 っていうんじゃなくて

何をどうしてもそうゆう結果になっていた

と考えると

少し楽になりませんか?

逆に絶望する人もいると思いますが

これは産まれる前に”子供を産まない”という設定をしてこの世に降りてきているという解釈で

産みたいのに産めなかった その事実に伴って生まれるあらゆる感情を体験することが目的になります

その感じたこと 起きたことに対しての感情反応を通して

人は何かを学びます 必ず

そして乗り越えた時に その経験で誰かを救うことができるのです


どんな経験も最終的な目的は ”誰かのため” なのだと思うのです


虐待を受けるという経験

それをこの世に降りてくる前に設定していたとしたら

乗り越えることで 要はそんな親でも許すことで

必ず救える誰かがいます


※虐待により命を落としてしまう子供については

身体を張って親や世間に影響を与える役目を持っています

寿命こそ生まれる前に誰もが決めてきていますので

殺し合いをする親子であってもがっつり握手を交わしてから人間界で落ち合うのです


自分を傷つけた親を こんな自分を作った親を

生涯恨み続けたり なかったことにしたりして死んでいくこともできるけれど

人生を選べない段階で受けた辛い体験は

後に他者へ何かしらの貢献ができるからしている可能性が高い だから

乗り越えないことのほうが勿体ないのではないかなと

思ったりします

ですから虐待を受ける子供は不幸なんじゃなくて 勇敢な戦士だと思います

”不幸”とか”可哀想”と言ってしまうほうが残酷 だってそれじゃもうどうにもできないってことでしょう?


この  ”生涯恨み続けたり なかったことにしたり”

これが自分に嘘をついている と表現することができるなと思うんですが

誰かや何かのせいにして生きていくのは 本音に嘘をついている

人間は誰かを恨んだり憎んだりしたくないという共通の意識を持っていて

本来は愛しかない存在なのですから 嘘

仮面を付けて生きていることと同じです

だから 誰かや何かにならなきゃいけないと躍起になって人生を潰してしまう

”本来の自分”で生きれていない状態です

それが承認欲求を強め他者に対してマウントを取るのです


そして虐待が起きた時にまずしなくてはいけないことは親のケアです

親自身が確実に自分の親から虐待されているからです

ここでいう虐待とは暴力などの外傷に限ったことではなくて

心理的に孤独であったり 愛されていないと感じる経験をしているということ

子供を捨てたい親もいなければ

子供を殴りたい 傷つけたい親も本来はいない

弱者を傷つけるのには必ず理由があります


連鎖を避けるために子供を産まないという

私のような人間も(笑)いると思いますが

本当にしなくてはいけないのは 親になる側の人間が

自分が愛されていたと思えているかどうか

ここにYESと即答できないのなら

まずは恨み倒して呪い倒すことがスタートです

これは抵抗できなかった子供時代の自分自身を助ける行為ですので

とても大切な作業になります

しようと決意してやる許しや感謝は嘘です

許しも感謝も自然に訪れるもの

そのためには溜まった黒い煙を全て吐き出さないといけません





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