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【歴史雑記】「史実を語らない史料」の価値

 歴史雑記016
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 最近は人口に膾炙してきたようだが、歴史学の史料にもさまざまな種類がある。
 一次史料や二次史料といった風に分類され、日本史で言えば木簡や書状といったものが一次史料になる。二次史料は後世の編纂物、たとえば軍記物などがそれに当たる。
 僕がのろのろと取り組んでいる中国古代史においては、一次史料は出土史料が中心で、『論語』に始まる諸子書や『史記』のような歴史書はみな編纂物で二次史料ということになる。
 もちろん、中国では編纂物も数多く出土しているので、この辺りの事情は日本史よりも複雑であると言える。

 さて、歴史学的な手続きに則って検討を進めると、当然のことだが一次史料がより史実に近いものであることは、詳しく説明しなくともお分かりいただけるだろう。
 逆に、軍記物や史書などの二次的編纂物は、史実から遠いということになるのもまた言を俟たない。

 ここで問題になるのが、いわゆる「わかりやすく面白い」エピソードの多くが、二次的な編纂物をその初出とすることである。
 であるからして、「いや、その軍記や説話はあくまでも構成になって創作されたもので、史実からはかなり距離がありますよ」ということは往々にして起きる。
 ただ、そういったわかりやすく面白いエピソードから入った人のなかには、史実により近い、史料批判を経た一次史料の語る内容に失望してしまうことも少なくないようである。

 そこで本日は、「史実から遠い後世の編纂物にも、独自の価値がある」ということを力説したい所存である。
 わかりやすい例を挙げようと思うが、たとえば日本中世史で言えば、筒井順慶の「洞が峠の日和見」などがそれに当たるであろう。
 この逸話は近世の軍記物である『和洲諸将軍伝』などに見えるが、同時代の史料である『多聞院日記』によれば、順慶は郡山城に重臣を集めて評定を行い、結果として籠城の構えを見せた。明智光秀から出兵督促のために遣わされたと覚しい藤田伝五と面会せず、洞が峠に出兵したのはむしろ光秀であった。
 つまり、順慶は日和見ではなく、光秀への積極的な加担を拒んだと見たほうが穏当だろう。
 関ヶ原における小早川秀秋を彷彿とさせるような、優柔不断で勝ち馬に乗るような順慶像は、あくまでも軍記のなかでのキャラクター設定にすぎない。

 もう一例は中国古代史から、かつて論文にも書いた墨子の救宋説話について見てみよう。
 この説話は『墨子』公輸篇をはじめ、『呂氏春秋』など数書に見えるが、大筋は同じである。

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