善良でないものの患い
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昨日あたりからまた鬱の野郎のご機嫌芳しからず、今日はカウンセリングに行って夕食を作るくらいしかできなかった。
具合の悪いときにカウンセリングのためにいろいろと思考を言語化するのは堪えるのだが、予約を入れているしやらないわけにもいかない。
なお、カウンセリングについては、担当カウンセラーにも守秘義務があるものだし、ここでは突っ込んだことは書かない。カウンセリングに興味のある人に、どんなものかを話すことは可能なので、DMをもらえたら返事をする可能性はある。
さて、この1年ほど、溺れる者は藁をも掴むという言葉の通りに、保険適用の処方薬以外にも効能があると言われるものをいろいろと試した。
アロマ、ハーブティー、間接照明、湿度コントロール、ウォーキング、断酒、夕方以降のカフェイン摂取を控える、昼間にスパイスを摂る、伝統宗教や瞑想について書かれた本を読む……などなど。
これらのなかには、それなりに効果がありそうで続いているものもあれば、こりゃプラセボも怪しいぞとやめてしまったもの、資源ゴミの日に出した本などもある。
本にしてもいろいろと手にとったが、そもそも病気そのものに関する本は、いわゆる「標準治療」に沿って書かれていて、もちろん正しいことが書いてはあるのだけれど、参考になるかと言われたらまあ知っていることしか書いていないし、そんなので治れば苦労しないよという話である。
この手の本は、当事者でなく(病院に付き添っているなら家族もそれほど必要ではないかもしれない)、健康な人が読んだほうが社会的に意味があるのかもしれない。
そうやっていろんな本を買ったり借りたりしているなかで、随分と前に買ったクシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』が部屋の下層から発掘された。
この本は、幼い息子が予後十数年の難病であることがわかり、絶望の淵に叩き落とされたユダヤ教のラビが、旧約聖書を読み返しながら救いを求めてゆく──というものである。世界的に売れた本でもある。
買った当時、たしかパラパラとはめくったはずなのだが、改めて読み返してみるかとまえがきを読み、本文に入った瞬間、僕は本を放り投げた。
なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?
クシュナー夫妻はおそらく善良な人たちなのだろう。
でも、僕はそもそも善良ではない。 いったいどうすればいいのか?
この世には、沢山の人を救った書物がたくさんある。僕自身も何度となく書物に救われたものだ。
しかし、善良でないものの患いから救ってくれる本はまだ見つかっていない。
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