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「わからないもの」との接し方

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 博覧強記なひとというのがたまにいて、驚かされるものなのだが、それにしても人間はこの世に存在するすべてをわかっているわけではない。
 ゆえに僕のような凡俗は、日々鬱病で低調な活動しかできなくても、頻繁に「わからないもの」に接することになる。

 これが知識的に単に知らないというだけなら、少しの手間を割いて調べれば片付くこともあるのだけれども、そういうものばかりでないことは、みなさんもご承知だろう。
 「最近の音楽がわからない」「古典的によいとされるものの「よさ」がわからない」、あるいは「政治」や「経済」がわからないとか、もっと漠然と「未来がわからない」「自分が何をすべきかわからない」など、そういった雑駁なわからなさである。

 このような「わからなさ」に接したとき、ひとは往々にして、自己防衛のために過剰な反応をしてしまうものである。
 たとえば、「◯◯はクソ」といった攻撃的な決めつけ、「◯◯なんて◻︎◻︎でしょ」といった無前提な判断、「◯◯? ああ、わかってるよ」といった知ったかぶりなどがこれに入る。
 いずれも、既存の自分を守るために、誰かを傷つけたり、無知を晒したりしながら苦しんでいる点では似通っていると僕は思う。

 思うに、これらはみな、「わからないもの」への対応として、「ダイレクトアタックを一度受ける」という前提から生じるのではないだろうか?
 僕のようにそれなりに歳を取ってくると、下の世代のひとたちが楽しんでいるものには、往々にして理解が及ばないし、自分の人間としての限界みたいなものもおぼろげに見えてきたりする。
 そういうときに、「わからないもの」に出会うと、これまで築きあげてきた自己が崩されるようなある種の「恐怖」が発生することは、それほど稀なことではないだろう。

 だからこそ、「わからないもの」とどう接するか、自分のスタンスを決めておくことは役に立つだろう。
 狷介にもなりたくなく、かといって知ったかぶりもな……という方におすすめなのは、「わからないものフォルダをつくる」という方法である。
 「わからないもの」に出会ったら、判断を保留して、とりあえずそのフォルダに入れておく。そして、ときおり見返して「ああ、これはこういうことだったんだな」という「わかり」が生じたら、別のフォルダに移せばよい。
 いったい、「なんでもよく理解しないといけない」などということはない。凡俗の守備範囲には自ずと限界というものがある。
 だから、「わからないものフォルダ」に居残りが生じたとしても、気にする必要もない。取りも直さず、「自分にはこれはわからない」という「わかり」が生じたことにもなるからである。

(これより下に文章はありません)

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