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【9/3】ようやくできた要約

・1900字弱


・あ

・「外人って差別語だから使わない方がいいよ」という言葉、誰しも人生のどこかでは耳にしているのではないだろうか。これ、感染力が強い言葉だと思う。

・外人、語感が良くないよね。英語の「Foreginer」は外人と同じ意味なのに非難されていない。

・もし外人と書いて「まるみみ」と読むのであれば、差別語ではなかったのではないだろうか。(語感が良いので)


・小学校の頃、給食を配膳するとき、数人のクラスメイトが「ご飯をよそった後、ほぐしてよ」と提案をしているのを見かけたことがある。人によって「ほぐして欲しい派」と「ほぐさないでもいいよ派」があるわけであり、配膳する側の人間は最初は要望を一人づつ聞いていたのだけど、じきに面倒になって全員のを一律にほぐすようになった。実際に「ほぐして欲しい派」に属すのは数人程度であるのにだ。

・「ほぐして欲しい派」が「ほぐさないでもいいよ派」にご飯をほぐしなさいよと注文したとき、後者は精神的に敗北すると思う。


・3月11日に卒業祝いをする人間に対し、「不謹慎だよ」とクレームがついた場合、つけられた側は精神的に敗北しないだろうか。

・不謹慎。これほど論理性を欠いているのに暴力的な説得力を持ち、感染力の強い言葉は他には知らない。

・「外人って差別語だから使わない方がいいよ」もそれなのだ。実際に外人と言う言葉で傷ついている人間がいるかどうかを差し置いて一部の日本人が主観で騒いでいるだけなのに、説得力というか「言い負かし力」が強いから支持されている。

・外人という言葉を使う人間の多くは差別意識など全くなく、単に一番短いから使っているだけなのだ。外人の他の呼び方として「海外の方」「外国人」「外国の方」などの言葉しかないのが問題かもしれない。「外人は差別語だ!」と宣う人間は、呼びやすい別の呼び名を用意すべきだ。


・論点が変わるが、外人は差別語であるとされた由来が調べてもあまりくわからなかった。教養のある人間は差別語であると理解できるかもしれないが、教養のない人間は差別語であると理解することができない。でもそれって、別にいいのではないだろうか?

・例えば、誰かと食事をしていて、相手が「仏箸」「箸渡し」などのマナー違反をした場合、教養のある人間だけが「死者の枕元に添えるご飯と同じになってしまうから不吉」とか「収骨室で骨を扱うのと同じだから演技が悪い」と理解できるのだろうが、教養のない人間はマナー違反に気づかない。

・教養がなければ「仏箸はマナー違反だ」とは気づかないだろうが、教養がなければそもそも「仏箸がマナー違反だ」と不快に思う事すらないはずだ。それじゃいかんのか?

・教養って「不快」を増やすためにあるのだろうか?

・名詞を下から渡されないと不快感を覚えるのが教養か?行を二重線で消して御中にされないと不快感を覚えるのが教養か?書き言葉で「御社」と書かれたら鼻で笑うのが教養か?

・めんどれぇ~~~

・そんな教養は捨ててしまえ

・何等かの歴史的背景が合って「外人」という言葉が差別語になったのかもしれないが、その背景を知らない世代の方が多いならそれはそっとしておけばいいのではないか?


・それから



・何か書いてて虚しくなってきた。不謹慎厨がいかに論理的に破綻しているか書きたい気持ちになったが、そんなことをして何になるというのだ…


・あ、そういえば今日で日記が100本目だ。いつかのブログでも言ったけど、もう100日目なので辞めたいと思う。

・自分は昔、「嫌いなものについて話すというのは中毒性があるからやめた方がいい。頭を使わず話せるし話題が尽きないが、その割に一定の面白さは保証されてしまう。しかし嫌いなものを嫌いだ嫌いだと言い続けて何になるんだ」と気づいてから、あまり嫌いなものについては言及しないようにしていたつもりなのだけど、少し気を抜くとこれだもんな。クソ…

・最近の私のブログは「世の中のアレが嫌いだ!世の中のコレが気に入らん!」という話題ばかりになってきていて、心が貧しくなっているのを感じる。

・人間、話題がない状態で「何か話して時間を埋めろ」「何か書いて文字数を埋めろ」と言われたら行きつくのは悪口だと思うのだよな。よくない。

・ということで日記も強制ではなく、気が向いた時に不定期更新にする。


・いつでも心に余裕を。


・いつでも心に余裕を持ってくれ。心が貧しいと創作物も貧しくなる。


・「怒る」「嫌う」「不満に思う」という選択肢を捨て、代わりに「赦す」「興味を失う」「諦める」という選択肢に置き換えるだけで人生は豊かになるはずなのだ。


・心に余裕を

・自戒


・おわり


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