ひとくちエッセイ集⑥

・1900字弱

・だからそれはツイートなんだって



病院の敷地内では死者が毎日のように出ているので、病院に行くと死亡率が上がる(詭弁の例)

僕が質問サイトを運営するなら(ありえない仮定)、集合知にならない質問スレッド(交流目的など)の投稿を規約で禁止するし、質問投稿時に「この過去の類似質問と同じ質問をしようとしていませんか?」と提案するとこでサイトの冗長性を減らす

他人のコミュニケーション上の悩み相談を聞くとき、大体は無視と訴訟で解決できると思っているのでそう答えるのだけど、どうやらそういうことではないらしい。

 全ての「長さが有限の数列」が円周率のどこかしらに含まれているように、「完全にランダムな無限の文字列」をプログラムコードとして、無限のメモリと無限の処理能力を持つコンピュータの上で動かせば、どこかしらでカービィの世界もポケモンの世界も、その他あらゆる物理法則の世界も作られる。そしてその中には、私たちの住む宇宙も再現される。
 この世界には、あらゆる物理法則に依存する、あらゆる存在(あるいは存在という言葉では表現できない全ての形容しがたいもの)が無限に続いていて、その無限の可能性の一つに私たちのいる宇宙があるのではという仮説を思いついた。

 神の存在証明のうち、目的論的証明は「世界は上手くできすぎているから、背後に設計者がいなければおかしい。よって神は存在している」という証明だ。しかしその理屈で言うと、そんな優れた設計者がいることも上手くできすぎているから、その設計者の設計者もいないとおかしくて、それが無限に続くので納得性に欠けると思っている。

 日本に、カレーを食べると懲役が科せられる法律があったとしよう。そして、とある1人の一般人を殺せばその法律を消せるとしよう。その場合は、殺した方がいいだろうか?(功利主義に関する思考実験なので、なぜそんな理不尽なシチュになっているのかは重要でない)

映画でも漫画でもアニメでも、大体のコンテンツは、「ネタバレにならない範囲で、映えるシーン」を一部公開することでプロモーションとする場合が多いけど、本はなぜそうではないのか?

言葉は送信者と受信者で決め事をして初めて意味を持つので、「ランランルーは卑罵語だ」という共通認識があればランランルーも卑罵語になる。ところで、僕と君との間で「あったかいいぬ」を「死んだ方がいい」という意味だと決めたら、どんな気持ちになるだろうか? 君はあったかいいぬだ

もぐぐうままが他人のnoteに「おもしれ~」程度の粗い感想ですら積極的にコメントする理由は、自分が「おもしれ~」程度の粗い感想コメントをされても嬉しいため

 「全ての作品はデフォルトが非閲覧注意で、一部の作品が閲覧注意である」という前提を皆は共有していると思うけど、個人的には逆の方がしっくり来る。全ての作品はデフォルトが閲覧注意で、一部の作品(しまじろうなど)が非閲覧注意。全ての作品は、繊細な他者を傷つける可能性を秘めている。
 「作品を見て傷ついた!」と言っている人を観測するたびにその様な事を考えている。

 どんなに性格の悪い人でも、おけつはプリプリである。これを読んでいる君は、最近嫌いな人がいることだろう。その嫌いな人も、おけつはプリプリ
なのだ。そう思うと許せるんじゃないかな。

 その英単語に相当する日本単語(日本単語?)があるのにわざわざカタカナ語を作るメリットは、その日本単語のもともと持つニュアンスを引き継がない、未知のニュアンスを含めることができる点だ思う。例:コミュニケーションという語は、意思疎通という語と意味が似ているが、ニュアンスや使い所が違う

辞典を電子に移植することによる僅かな弊害

 ネットの友人を見渡して思ったことがあるのだけど、「ネット上でのハンドルネームの頭文字が、五十音表で右上に位置しているほど早生まれで、左下にあるほど遅生まれである傾向にある」のではないか? という説を考えた。

金太郎のあらすじを調べているけど、有名な日本昔話の割りにはハイコンテキストすぎてとても子供を寝かしつけるのに使えるお話ではないな。そこの貴方は、金太郎のストーリーを諳んじられるだろうか?

六法を民間人でも普通に読める現代と違い、江戸時代、公事方御定書が法だったときは、公事方御定書は司法中枢の人間だけが読んでおり、民間人はそれを読めなかった。その理由の一つに、民間人が条文を読めない方が皆が漠然とそれぞれの想像する規範に則って行動すると考えられていた説が挙げられている(要出典)。


・おわり

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