砂場_

砂場で眠る

 砂場で眠る。私は手をつないでもらっている。
 目の前は星空ばかりで、月は見当たらなかった。でも空がぼんやりと明るいからきっとどこかに隠れているのかもしれない。
 月光が漏れ出ている空が、ジャングルジムの影を私の体に薄く這わせている。その交錯する影の直線が亀裂のようだとぼんやりと思った。つないでいる手は私を何かと繋ぎ止めてくれているもので、きっと今手を離したら、私の身体はこの亀裂から裂けてバラバラに砕け散り、砂場に放たれる。
 粉々になった私の身体は砂場の一部になって、夏の照り付ける日差しを恐れず、日光を貪るように浴びて公園脇を通る車の振動で時折くすぐられるのかもしれない。そう思うとなんだか悪くないなと思った。
 でも大嫌いな私の黄土色の肌は、あっという間に砂場に紛れて。
 そしたら、もう、誰も私を見つけられない。
 なんだかそれはとても恐ろしい事のように思えた。
 見つけてもらいたい人も、私を必死に探してくれるような人も、誰も居ない。思い浮かんでもすぐに淡く消えてゆく。私はいつだって誰かの一番にはなれなかった。逆に自分の中でどうしても忘れたくない人を探してみたけれど、誰も居ないことに気が付いた。
 空っぽだ。
 それなのに消えてしまうことを恐ろしいと思ってしまうのは、底知れぬ死の匂いが漂っているからかもしれない。だから私はつないだ手を離せないでいる。砕け散るだなんて馬鹿げた妄想を振り払えないくらい今は心が弱っていた。なにか特別つらいことがあったわけではない。けれど、平坦な日常に心が削られてゆく感覚に不意に耐えられなくなる時がある。そういう時、お酒を飲んで、どうにでもなれと思ってしまう。もう全部全部放りだしてしまおうと、そしてうっかり死ねたらいいのに。なんて、死ぬ気もないのに思ってしまう。どうにでもなれと、砂場に寝転んでしまったりもする。髪の毛の間に砂が入り込むのなんて本当は嫌なのに、それでもいいやと思ってしまう。
 いま手をつないでもらっているから、私は公園脇の道路に飛びなさないで済んでいる。この手を離したら、本当に粉々になることは可能なのだ。そう思えば思うほど、私は手を離せないでいた。自分をめちゃくちゃになってしまいたい衝動に駆られる反面、どうしてもそれができない自分が共存している。考えると吐き気がした。
 それに今は体が砕け散るというより、溶け出しそうな感覚に近い。自分と砂場の境目が曖昧になっている。さっきから星空がひっくり返るように動いて見える。制御できない揺らめきに私は目を閉じた。
 生暖かい風が私たちの間を抜けてゆく。夏特有の形ある空気が公園の草木や土のもたついた湿り気、アスファルトの歪んだ香り、その全てを妙な生々しさで運んでくる。人間のおぼろげな部分でさえ、浮き彫りにされそうなそんな危うさが私は怖い。
 「あなたの手、冷たくて気持ちいいね」
 横から声が聞こえる。指先が微かに動いて、私の手の甲を撫でた。「陶器みたいにすべすべしてる」寝言のように小さな声だった。
 横を向くと胃の中の物がせりあがってくるような予感がして、私は目だけで声の方を向いた。睫毛の隙間から、姿をとらえる。肌の白いその人は、月明りを吸収して薄く発光しているように見えた。ずいぶんと長い時間手を繋いでいたような気がするけれど、姿を見るのはこれが初めてだった。
 私が酔いつぶれて砂場に倒れ込んでいた時、上から「生きてる?」という声が聞こえて、私は確か「分からない」と答えた。
 普段の私ならそこで口を噤むはずなのに、酔いが回っていたのか、それとも夏の空気に欲望を引っ張り出されたのか、とにかく自分の頭で考える前に「手をつないでくれませんか?」と妙な言葉を深夜の公園にポツリと放ってしまった。そしてそれは放り出されることはなく、見ず知らずのその人に受け入れられ、独り砂場で寝転んでいた私は、私たちとなった。その人は返事をする代わりに私の横に寝転がり、手を握ってくれた。植物のように静かな動きだった。暖かな手の感覚だけが相手の存在を知らせてくれた。
 「あなたの方が陶器みたいだよ、白くて、滑らかに光ってる」
 私が言うと、その人は短く息を吸った。
 「びっくりした。眠っているのかと思ってた」
 「まどろみの中で想像をしていたよ」
 そう答えると、その人は「ふうん」と息を吐きだし、少し間を置いて「どんなことを考えてたのか聞いてもいい?」と控えめな声できいてきた。
 私は一瞬はぐらかそうかと悩んだけれど、手をつないでもらっているのにそんなことはできなかった。笑われても良いと思いながら、さっきまで自分が考えていた馬鹿げた想像をその人にすべて話した。
 体が砕けて砂場の一部になること、誰にも見つけてもらえないのがひどく恐ろしく思えたこと、誰かの一番になれないこと、自分が空っぽなこと、あなたの手をどうしても離せなかったこと。
 自分でも正確に話せているかは分からなかったけれど、その人は私の話に静かに耳を傾けてくれていた。一連の話を聞いて、彼女は「泣かないで」と、その一言だけ不安げな声で言った。
 そこで初めて自分が泣いていることに気が付いた。
 まぶたを閉じても涙があふれてどうしようもなかった。つながっている手が温かい事だけが救いだった。
 声も出さずにさめざめと泣き、気が付いたら私は眠っていた。
 錆びれた団地近くの、遊具の少ない小さな公園の隅の砂場で。
 知らない人に手をつないでもらいながら、ずいぶんと久しぶりに深く深く、潜るように眠りについた。
 どれぐらい眠っていたのかは分からないけれど、トラックの走り抜ける音で目が覚めた。紺のスーツは砂でまんべんなく茶色くなっているし、ストッキングは所々裂けて、擦りむいた膝からは血が滲んでいた。結んでいた髪の毛もほどけていて、触らなくても肌がパサついてるのが分かる。鏡を見るのが怖いなと思いながらつながれている手の方を見てぎょっとした。
 女子高生だ。
 制服に見覚えがあった。この地域で有名な私立高校の制服。ブラウンで統一されている上品なそれは雑草やら砂やらで汚れてしまっていた。
 「ちょっと!ねぇ!起きて!」
 女子高生の身体を揺らしながら声をかける。長い髪がしだれて、彼女の睫毛にかかった。瞼が少し動き、ゆっくりと開く。私と目が合うと「あ、おはようございます」と言った。冷静な口調に面食らってしまう。
 「こんな、こんな、ところで未成年が、何かあったら…」
 しどろもどろ言う私に、彼女は体を起こしながら吹き出すようにして笑った。
 「急にまともな大人みたいなこと言わないでくださいよ」
 「いや、大人だし…」
 「昨日あんなにメソメソしてたくせに」
  少し意地悪な表情で言う彼女に反論しようと口を開いたけれど、「でも」という言葉でそれはさえぎられてしまった。
 「でも、あなたがメソメソしていて私も助かりました。私、死に場所を探していたんです」
 「え?死に場所?」
 「はい。なんだか疲れちゃって、もう良いかなって思ったんです。生きるのって大変じゃないですか。将来のこととかそんなの良く分からないし、やりたいことなんてないし、SNSで仲の良かったクラスメイトの近況報告を擦り切れるような気持ちで見たり、LINEのグループに私だけ入ってないことをうっかり知っちゃったり、なんか、そういうのばっかりだったら今のうちに死んでしまおうかなって思って」
 「助かったって、死に場所が見つかったってこと…?」
 私が言うと彼女は口を斜めにして笑った。
 「違いますよ。死ぬんじゃなくて、生きようって思ったんです」
 「うそ、なんで?」
 むしろ人生の最悪を女子高生に見せてしまった罪悪感にさいなまれていた私には、どうして生きようと考えを変えたのか全く理解できなかった。
 「なんか、安心したんです。学校だとみんな幸せそうに見えて。不幸というか、心に靄があるのは私だけなのかなって思って。でも、昨日あなたが話してくれたじゃないですか。不安なことや、怖いと思ってること。私、他人のそういう感情を聞いたの初めてで、心配だなって思うのと同時にすごく安心したんです。それにどうしても私の手を離せなかったっていうのも、なんか存在を肯定された感じがして嬉しかったんです」
 淡々と語る女子高生に大人である私は圧倒されっぱなしで、むしろ恥ずかしさのあまり顔を両手で覆いたくて仕方がなかった。けれど彼女の落ち着いた深い色の瞳から目が離せないでいた。
 この錆びれた公園で彼女の存在だけが正しいと思えた。
 彼女はしなやかに立ち上がると制服の砂を払って私に手を差し出した。手を取ると、グイっと引き上げられ、顔と顔が近づき、思わず息を止めた。風が吹いて辺りが木々の凪ぐ音で包まれる。たった一瞬のことなのに時間がやけに長く感じた。
 「だからあなたも生きて下さいね」
 ゆっくりと囁かれた言葉に鼓膜が震え、背筋に戦慄が走った。この上なく美しいと思った。同時に呪いのような不気味さを私は感じていた。美しさには常に死が香っている。彼女にはそれがあった。
 それほどまでに完璧な笑顔だった。
 なにか、なにか、言わなくてはと思ったのだけれど、私の口は開いたままでこの場にふさわしい言葉は何も出てこなかった。
 彼女は「じゃあ、お元気で」と制服のスカートを翻して、私の元を去っていった。
 私はしばらくその場に突っ立っていた。時間がたつにつれて彼女のことは全て夢だったのではないかと思えてきたりもしたけれど、
 「だからあなたも生きて下さいね」
 という言葉が、生々しい美しさと共に私の中に残っている。
 あれから彼女には一度も会えていない。これから先、決して交わることのないふたつの人生かもしれない。けれど、でも、私たちはあの砂場で、魂を少しずつ交換していて、人生を一瞬交錯させ、お互いの心の柔らかな部分を見せ合い、共感し、共鳴させた。私の中に今も彼女の魂の鱗粉がほんの少し残っているような気がしている。どうか元気でやっていてほしい、そして私は今日もどうにか生きている。

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