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エアーポンプと赤 3

 リョウと私は手を繋いでいる。

 ベットの上で二人。リョウが私の横に倒れ込んでからたぶん5分くらい。それからずっと何もしゃべらず、ただ手を繋いでいる。

 彼女は私の横でクリーム色の天井を真面目な顔で見つめていた。さっきまであんなにはしゃいでいたというのに、なんだか今にも泣きだしそうな張り詰めたような顔をしている。私はゆっくりとまばたきを繰り返しながらその横顔を眺め、気づかれないように小さなため息をついた。繋いでいる彼女の手の力が、心なしか強くなる。ため息が聞こえてしまったのかもしれない。

 「アイラね、これから仕事なんだ~」

 高過ぎずも、低すぎずもしない。けれど蜜のように絡みつく声。

 「そっか」

 私はわざとそっけない返事をした。

 アイラとは彼女の源名だ。私の瞼が重たくなる頃、リョウはベットから抜け出して夜の街で働いている。

 私は一度も彼女おことをその名前で呼んだことはない。

 リョウは自分の名前が昔から嫌いだった。

 覚えている限りでは、幼稚園の頃から。

 「男の子みたいできらいなの。ヒナちゃんみたいにもっと女の子みたいな名前がよかったのに・・・」

 彼女はよくそう言っていた。

 リョウの「名前嫌い」の話を聞くたび、私は居心地が悪くなった。人の話を黙って聞けるおしとやかさも、その話を理解する能力も、相手に合わせる協調性もまだ覚え途中で幼かったのもあるかもしれない。でも一番の理由は、悲しそうな彼女の横顔を見るのが嫌だったからだと思う。

 私の幼い頃の記憶は、ほぼ彼女で埋め尽くされている。他のことなんてこれっぽっちも覚えていないのに。リョウのことはすぐに思い出せる。彼女はみんなの憧れで、私だけの特別だった。

 例えば、リョウの手に初めて触れた日のことを今でも覚えている。覚えているといっても、掘り起こされる記憶は断片的な無声映画のようなもので。私の記憶はたいてい映像として私の中に残っている。

 あの日リョウと私は折り紙を折っていた。まだ何も塗ったことのない小粒のつややかな爪と、やわらかな指で。

 しばらくして横を見るとリョウが静かに泣いていた。名前のことで男の子にからかわれたのが理由だったと思う。柔らかな頬にはまつ毛の影が落ち、鼻水をすするたびに涙が折り紙にまだら模様を作った。

 正直なところ、私はどうしていいのか分からなかった。

 折り紙を握りしめているジュンの手は小さく震えていた。震えていて、寒そうだと思ったから、小さな生き物を柔らかく包むように私はその手にそっと触れたのだ。

 リョウは驚いた顔をした後、にっこりと微笑んだ。その時私は彼女に何か声を掛けたはずだったけれど、さすがにそこまでは忘れてしまった。

 そうだ、それから私たちは本当の友達になったのだ。

 幼稚園は他の子と全てが同じだった。全員同じ水色のスモックを着ていた。リョウも私も、その他大勢の子供たちも。着るもの、履くもの、使うもの、すべてが指定されている。

 ただ一つだけ、私は他の子と違うものを持っていた。リョウと私だけのおそろいのキーホルダー。リョウがピンクで私が水色の小さなウサギ。プラスチックでできていて、私のウサギは太陽にかざすと水色の影を落とす。その水色が私の世界を明るくさせた。

 幼いころの私たちの友情の証。代えがたい宝物。

 あんなに大事にしていたのに、大事にしようと心に誓ったのに水色のウサギを私はいつの間にか失くしてしまった。でも、私とリョウは姿かたちを変えながらも、時折こうして一緒にいる。

 心にぽっかりと穴が開いた一人ぼっちの夜。どちらが呼びかけるわけでもない。吸い寄せられるように私たちは寄り添い、あの時私がリョウにしたみたいにどちらかが手をとり、悲しみをやり過ごす。

 私が強く手を握ると、彼女が握り返してくる。

 まだ始まったばかりの夜が私たちのうえを通過してゆく。 

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