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待ち焦がれながら真夜中に。

 閉じていた瞳をゆっくりと開く。まつげの間をすり抜けて、街灯の光が入り込んできた。夏の夜の重苦しい熱風が、少し伸びた私の髪の毛と戯れている。手で髪を撫で付けながら、また時間をかけて瞳を閉じる。

 ゆっくりと瞬きをする癖が付いたのは、この歩道橋で彼を待つようになってから。

 歩道橋の手すりに頬付をついて、不安になるほどに薄い瞼の開閉を繰り返す。瞼を開いている時に彼が現れるのか、はたまた閉じている時に現れるのか。そんなことを考えたりしながら、私は今日も彼を待っている。次に瞼を開く時、世界が終わってしまえばいいだなんて淡い期待を抱きながら。

 足元を走り抜ける自動車やトラックが風を巻き上げて振動となり、歩道橋を揺らす。細かい地鳴りのようなそれは、次第に私の心をも震わせるようだった。鼓動の音と共に揺れは大きくなり、私の身体をガタガタと揺さぶりながら、耳元で囁くのだ。

 彼はきっと帰ってこないよ。お前に飽きてしまったんだ。お前は1人ぼっちなんだよ、と。

 車の赤いテールランプが残像を残して去ってゆく。歩道橋がまた揺れる。世界が終わらないのなら、どこか遠くへ行ってしまいたい。行きたい場所なんてどこにもないけれど。こうやって目を閉じて、開いているうちに、何もかも忘れて知らない世界の隙間に滑り込めたらいいのに。

 幸せを感じるたび、心の隅でいつも考えてしまう。いつかこの幸福が終ってしまった時、私は生きてゆけるのだろうかと。その恐怖を知るくらいならば、消えてなくなってしまえたらどんなに良いのだろうと。

 今の私を形作る幸せな日々が、粉々になってしまうくらいならば、目を閉じている間にここから身を乗り出してしまおうか。きっと落下してゆく私は宇宙に投げ出された星屑みたいに、暑苦しく停滞している真夏の夜を切り裂いてゆく。目を開いたとき、その瞳はいったい何を映し出すのだろう。

 「うわ。もう明日になるじゃん。早く帰ろう」

 声に振り向くと彼がいた。

 世界は今日も変わらなかった。開いた瞳に映るのは、いつものように口元を緩めて笑う彼。きちんとアイロンをかけているはずなのに、仕事が終わる頃にはくったりとしているワイシャツ。今朝入念に塗っていた髪の毛のワックスは、跡形もなくなっていた。なんの変わりもない、彼の姿だった。

 着けていた腕時計を見ると、24時までにはまだほんの少しだけ時間があった。

 「まだだよ。あと10秒くらいあるよ」

 遠くの方で、クラクションの音が鳴った。変わらなかった世界に、心臓の辺りが痛くなるほど安心している私がいる。

 「え、何?聞こえなかった」

 あくびをしながら彼が言う。真夜中まであと5秒くらい。

 「ううん。なんでもない。おかえりなさい」

 「おう。ただいま」

 隙間を縫うように手足を揺らしながら歩道橋の階段を降りてゆく。彼は何も言わずに指を絡ませてくる。指先の暖かさにひどく安心した。眠たそうな彼の手を引きながら、今日の朝ごはんのレシピを考える。腕時計を見ると24時を過ぎていた。

 待ち焦がれるほどに愛おしい真夜中のこの時間が、私は大好きで、そしていつも少しだけ怖いのだった。

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