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エアーポンプと赤 1

 さよならが上手に言えないから、あたしはいつも捨てられる。

 目を覚ました時、どこに居るのかとっさに分からなかった。シーツから冷たいカビの匂いがする。クリーム色の天井。動いていない時計。埃をかぶった掃除機。洗濯物で座る場所すらないソファ。何もかも静かに、死の匂いのようなものを漂わせながら存在している。

 その中で唯一音をたてているものがあった。カーテンが閉め切られている窓辺に、忘れ去られたようにある水槽。そこに取りつけているエアーポンプがブブブブブと振動している。あぁそうだ、金魚たちに酸素を送ろうと思ったんだった。呼吸しやすいように、生きやすいようにと思って。

 時間をかけて見渡して、ようやくここが自分の部屋なのだと理解した。足を踏み入れたのはおよそ半年ぶりだった。

 今回は長く続いた方だと思う。

 目元を触ると乾ききった肌と、取れかけたマスカラのザラついた感覚があった。きっとさっきまで泣いていたのだと思う。自分の事なのにそれすらも確かじゃない。

 私が私の事を確かに分からないのはいつもの事で。

 自分が何をしなくちゃいけないのかとか、何をした方がいいとか、そういったことがいつも分からない。誰かに指図されたり、熱中してたり、命令されないと私は自分を保てない。そうじゃないと、輪郭が薄れてゆくように感じる。さらさらとした水みたいに、形を保っていられない。周りの空気に溶けだして、透明になってゆくような気がした。

 透明になった私はきっと誰からも見つけてもらえない。たぶん、自分でさえ私を見つけることができなくなってしまうんだと思う。そうならないために、私は誰かに求めてもらいたいと、いつだって切に願っている。いや、すがっているようなものかもしれない。

 今付き合っている彼とは1年ほど交際が続いていた。1年のうち半分は彼の家で生活をした。

 のやんわりと断られながらも、鈍感なふりをして男の家に転がり込むのは得意だった。

 彼は私が今まで付き合ってきたどの男たちよりも部屋に物が少なく、全てのものが清潔に、あるべき場所に収められていた。私はそこに自分のお気に入りの洋服や、口紅、アクセサリーなどを徐々にちりばめ、自分のテリトリーを静かに構築していった。

 付き合う男の部屋を自分の色にじわじわと変えてゆく。

 それが楽しみでもあり、自分の存在を証明するような些細なあがきでもあった。他人の家に自分の物が増えてゆく。それを眺めると、心の中にあるささくれだった焦りのようなものが、少しの間だけ平らになるような気がした。私にも居場所があるのだと錯覚できた。

 けれど実際のところ、いくら男の家に私の使いかけの歯ブラシや、着なくなった冬物のコート、センスの悪いお揃いのマグカップ、リボンのついた実用性のないフライ返し、女ものの甘ったるいシャンプーやリンスをボトルで置いたところで、締め出されてしまえばおしまい。拒まれてしまえば、私のマーキングなんて何の意味もないのだ。

 今はいったい何時なのだろう。カーテンの隙間から差し込む光が、朝日のようにも夕日のようにも思える。部屋の時計が動いていないからといって、時間が止まっているわけじゃないはずだ。

 スマホを探そうとした時、握りしめていた手のひらに堅い感触があった。思わず苦笑いをしてしまう。彼から連絡が来ると思って一日中待っていたのだ。眠りながら握りしめるほどに、この小さな機械が振動するのを。

 スマホの画面で時間を確認する。あれから丸一日経っているのにやっぱり彼からは何の連絡もなかった。じんわりと瞼のふちが熱くなる。視界がゆがみ、涙が溢れた。

 ベットに突っ伏すように寝返りをうつと、埃の降り積もっているフローリングに自分の足跡が見える。

 だいじょうぶ。私はまだ透明じゃない。

 死の匂いが漂う、誰も居ないこの部屋で息をしている。

 だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 誰かがきっと私の事を必要としてくれるはずだもの。

 私は声を出さず、静かに泣いた。エアーポンプの音だけが部屋に響き渡っている。

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