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ユリちゃん

  がたたん。ごととん。がたたん。ごととん。

 その日私は地下鉄の中でうたた寝をしていました。通学している高校からこの地下鉄の駅までは歩いて15分ほどなのですが、11月の木枯らしが私の身体を冷やすのには十分過ぎるほどの時間で、暖かい車内に凍え切った足を踏み入れた瞬間、固まっていた節々が和らぐのを感じました。それと同時に気も緩んでしまったのか、いけないと思いつつ泥にどっぷりとつかるような眠気が私のまぶたを重くしてゆきます。

 乗り物の中で眠くなるのは、この心地の良い揺れがお母さんのおなかの中に居た時の揺れと似ているからだと聞いたことがあります。何で得た知識なのかはすっかり忘れてしまいましたが、私はがたたん。ごととん。がたたん。ごととん。と地下鉄に乗って揺れていると、必ず眠くなってしまうのでこれは本当なのだと思うのです。眠くなるといえば、通り雨でずぶぬれになったり、プールの水につかったりすると途端に眠くなるのはなぜなのかしら。そんなことを考えながら、うつらうつらとしていると、薄く開けた視界の隅に同い年位の女の子がこちらをじぃっと見ているのをとらえました。

 真っ黒いワンピースを着たおかっぱ頭の女の子で、細長い目と、小さな口が白い顔にのっぺりとくっ付いています。ですが、すぅーと伸びるように通っている鼻筋が彼女全体を凛とした雰囲気にまとめ上げていました。そんな彼女が何か言いたそうに、まっすぐこちらを見ていたのです。

 何かしらと思い、薄目のまま彼女の方に視線を送ると、しっかりと目が合いました。不思議なことにその瞬間、バチンという音が私の脳内に響き渡ったのです。あれは耳鳴りとはまた別な音でした。例えるのならばプラスチックでできているパズルのピースを勢いよくはめ込んだ時のような音です。

 その音にあっけにとられていると、右斜め迎えに座っている彼女の赤く綺麗な唇から、聞き取りやすい澄んだ声が発せられました。

 「あなたユリちゃんでしょ?ねぇ、あなたユリちゃんよね??」

 ユリちゃん・・・。

 はて、誰のことでしょう。

 きっと彼女は誰かと私を間違っているのかもしれません。人間違いと言うやつです。私は尾を引く眠気を言い訳にして、訂正せず目を閉じてしらんぷりを決め込みました。

 その間もしきりに「ユリちゃん。ユリちゃん」と話しかけられ、さすがに訂正しなくては申し訳がないと思ったのですが、今さら顔を上げるのも気が引けたので、狸寝入りをし続けました。「ユリちゃん」と呼ばれるたびに胸がギュッっと締め付けられ、こんなことなら初めから人間違いだと教えてあげればよかったと心から思いました。彼女がどんな表情をして「ユリちゃん」を呼んでいたのかは、目をきつく閉じていたのでわかりません。ただ、声を聞く限り、私が「ユリちゃん」であることをまだ疑いなく信じているようでした。

 ようやく車内のアナウンスが私の降りる駅の名前を告げましたげ、ぷしゅりと勢いのある音と共にドアが開きます。私はそれと同時に飛び出すように地下鉄を降りました。

「ねぇ、ユリちゃんよね?」

 彼女は私が降りる間際にもう一度だけ声をかけてきましたが、なんだか恐ろしくなって振り返る勇気はありませんでした。

 がたたん。ごととん。がたたん。ごととん。

 電車が走り出したのが分かります。私はそれを背中で感じながら駅のホームを全速力で後にしました。

 知らない人の名前でしきりに呼び止められる経験なんて今までありませんでしたから、胸や胃のあたりがぎゅううと締め付けられ、なんだかずっと呼吸がしずらいままでした。

 私は言いようのない恐怖に襲われながらそそくさと家に帰り、表現できないこの恐怖を母と妹に話しました。母は庭の手入れをしているところで、妹はリビングでテレビを見ているところでした。話を聞き終えて妹は「なにそれ。超こわぁい」とへらへらしていましたが、母はチューリップの球根を庭に植えこみながら「不思議ねぇ」と呟いたのです。

 「ね!あそこまでしつこく間違えるほど私に似ている人がこの世に居るだなんて思わなかったわ!」

 私が言うと、母は「うーん」と腕を組んでうなり、くもった表情のまま口をひらきました。

 「いやぁね、本人は覚えてないでしょうけど、あなた産まれてから一週間くらいまではユリちゃんって呼ばれてたのよ。でも役所に書類を提出する時にお父さんがもう1つ候補に挙がってた名前の方がいいって急に言い出したもんだから、今の名前になったのよ。」

 「「へぇ」」

 私と妹は同じタイミングで気の抜けた声を出しながら感心し、母はそんな私たちを見てうふふと笑いました。

 あまりにも昔のことなのでまったく実感がわきませんでしたが、まさか自分にもう一つ名前があったとは。

 「まぁ、今回のことは、きっとたまたまの偶然なんだから、人間違いならちゃんと言わなきゃだめよ。私はユリちゃんじゃありませんって」

 母は私を軽くしかるとまた球根を植えだしました。きっと春にになったら眩しいほどに綺麗な花を咲かせるのでしょう。妹はいつの間にかテレビに顔を向け、録画していたのであろうバライティー番組を見て笑っていました。

 きっと赤ちゃんだった頃の私は、ユリと呼ばれなくなってしまったその瞬間に、「ユリという自分」と、「今の自分」の2人に分裂してしまったのだと思いました。そう思うとユリとして生きて、ユリちゃんと言われ慕われている自分が本当にいるような気がしてくるのです。

 母は偶然と言いましたが、あの時会ったオカッパ頭の女の子は、ユリちゃんとして生きていたかもしれない私の友人だったのだと思います。

 がたたん。ごととん。がたたん。ごととん。

 地下鉄に揺られながら、私は今日ももう一人の自分の事を考えます。

 がたたん。ごととん。がたたん。ごととん。

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