見出し画像

エーアポンプと赤 2

 夢を見ていた。

 緑色の光の上で私は体を丸めるようにして眠っていた。風が吹き、緑色の光はそよそよと音をたてた。どうやら草原に居るらしい。そう理解すると、私の周りに白や黄色の小さな花が咲きだした。雲一つない晴天で、私は日焼けも気にせず日光を体に吸収していた。

 誰かが私の頭を撫でてくれてる。逆光で姿は見えないけれど、手だけはやたらとハッキリと見えた。誰の手だろう。この細い指先を知ってるようにも、知らないようにも思える。つるつるで、人肌特有の弾力があって、ひんやりとしていて気持ちがいい。私はしばらくの間、安心して目をつむっていた。

 「ん、痛い!」

 さっきまで気持ちよく撫でられていた頭に、ちくりとした小さな痛みが走る。頭皮が何か固い物でつつかれているようだ。

 とっさに目を開けると、心地よい手はどこかへ消え、代わりに人間ほどの大きさの金魚が口をパクパクとさせながら私の頭をかじっているのが見えた。周りを見渡すと同じような金魚が数匹、私の周りに漂うように集まってきている。せわしなく開いたり閉じたりする金魚の口の中は真っ黒く、けれどそこにある鋭い刃物のような歯だけがギラギラと存在感を放っていた。

 花は枯れ、緑色に光っていた草原はもうどこにもなかった。世界がどろりと溶けだす。金魚は血のように赤く、長いヒレを私に擦り付けてくる。振り払おうと手を振りかざした時、自分の手が薄く消えてゆくのが見えた。小指と人差し指は、ほぼ消えている。

 悲鳴を上げようと息を吸い込んだ時、現実の私は勢いよく体を起こした。

 暗闇に馴れていた目に部屋の明かりが容赦なく突き刺さる。目覚めたことによる安堵よりも、まだ脳裏に焼き付いている生臭そうな金魚に寒気がした。

 「うっわ、びっくりした」

 そう言ったのは私ではなかった。

 泣いたことによって細くしか開かないまぶたでも、はっきり目に飛び込んでくる真っ赤なネイル。その上にはシルバーのカットストーンが散りばめられ、まばゆい光を発していた。こんな派手なネイルをする友人を私は1人しか知らない。

 「リョウ!?なんで居るの??」

 私の言葉にベットサイドに腰を降ろしていたリョウは思いっきり顔をしかめた。

 「なんでって、ヒナが昨日変なLINE送ってきたから飛んできてやったんじゃん!!LINEの返事は来ないし、部屋の鍵は開いてるわ、電気も付いてないわで、超怖かったんだから。あんたはベットでぐったりしてるし、誰かに殺されて死んでるかと思って超びっくりしたのに、よく見るとめっちゃ寝てて、しかも超いびきかいてんの」

 リョウは「うける~」と言い、手を叩きながらキャハハと笑った。バニラ系の香水の匂いが、部屋の沈んだ空気をかき消すように彼女の動きと共に散らばる。ひらひらと振られる手の、真っ赤に派手な爪が凶器じみて見えた。多分この長い爪で頭をつつかれたから変な夢を見たのかもしれない。夢の中で私の頭を撫でてくれていたのはきっと彼女だろう。私は彼女の手の感触をよく知っている。

 いつの間にか手放していたスマホを手に取り画面を見ると、リョウからの着信が数件入っていた。その中に彼からの連絡が紛れていないか探したが、何の通知も来ていなかった。

 そういえば昨日彼の家を飛び出してすぐに、震える手で私はリョウにLINEを送ったのだ。

 「もうだめかも」

 それだけのメッセージだった。

 彼に対する怒りと、私の悲しみと、あまりにも突然に訪れた絶望を誰かに聞いてほしかった。喋った分だけ、それらが少しでも私の身体から抜けていってくれればいい。そしたらこのやるせなさも、寂しさも、解決するかもしれない、そう思って。感情のまとまらないまま、たった一人の友人に助けを求めた。激情に任せた衝動的なものだった。

 いつもなら一分も待たずに返事が来るというのに、来なかったということはきっと「あの男」と会っていたのだろう。

 ほぼ半日が経った今。冷静さを取り戻しつつある私は、不幸を熱と勢いに乗せて話す元気も、気力もなくなってしまっていた。私はだめだめ人間で、正直に言えばずっと彼からの連絡を待っている。それに今は、何も考えたくなかった。あんなに寝ていたというのに、なぜだか私は疲弊している。

 恋をするたび若返るなんて、あれは嘘。

 恋をすると私はいつも息苦しく、苛立ち、時折底知れぬ悲しみに襲われる。気づいたら疲れ果て、若々しさがいびつに削られてゆくのを止めることすらできない。それでも何度も繰り返す。気づいているのにやめることができないのは、私が馬鹿でどうしようもない人間だから。

 「ってか、リョウって呼ばないでって言ってるじゃん!アイラって呼んで!!」

 ぼんやりとしていた私の横に、リョウが勢いよく倒れ込んできた。埃が舞ったのが蛍光灯の反射で分かる。私は思わず息を止め、リョウは「くちゅん」と小さなクシャミをした。話す声は大きいというのに、クシャミだけはやたらしおらしく、思わず笑ってしまう。

 私はそんな彼女が愛らしく大切で、そしてほんの少しだけ苦手なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?