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鍋島雅治先生を偲ぶ

最後にお会いしたのが、2019年12月20日、カレッジコースの講義でした。STAR WARSのepisode.9を鑑賞していて、ちょっとだけ遅刻された鍋島先生の代わりに、前座として場を繋いだのは自分でした。講座自体は盛況で、また実戦的なノート術に、巧みな話芸に良く通る声、豊富な実例にと、内容も素晴らしくて。受講生には好評でした。

自分もいち受講生として拝聴。講座後はさっそく、STAR WARSの感想を交換し、来年は京都精華大学の教授として単身赴任する予定であったこと、東京工芸大学の講師の後がまの話などして、京都の方に臨時講師で来てよとか、さらに以前開講して好評だった『ローマの休日』解題講座の続編として、『ロッキー』か『七人の侍』やろうかとか、来年の講座の話もアレコレ話したのに……。

訃報を聞いたのが12月25日日。亡くなったのは24日のようでした。ちょうど、NPO法人NEWVERYの小崎理事長と打ち合わせで、その日に訃報をお聞きしました。まさに、このつぶやきはそのことを語ったモノでした。御遺族の意向で、クリスマスや年末年始の時期の発表は控える意向だったので、こういう書き方になってしまいました。この日は未知で派手に転んで膝から出血と、踏んだり蹴ったり。

ほんと、最後にお会いして1週間も経っていませんでしたし。そもそも、自分がトキワ荘プロジェクトと関わるようになったのは、鍋島先生の推薦。面識もなかったのに、Twitterのつぶやきの内容から、アイツは使えるぞと夏合宿の講座に講師として呼んでくれたんですよ。人間を肩書きで見る人ではなく、自分の価値基準がある、偏見のない人でした。だから、交友範囲もとても広かったです。

昨年はちょうど、鍋島先生の師である小池一夫先生が亡くなった翌日の4月18日に、調布で呑んでいたんですよね。発表はこの日だったような記憶が。柳家小三治独演会を、二人で聴いて。美味しいお酒を飲んで。実は師匠が入院してね……と心配されていたのに。まさか年内に、追いかけて行かれるとは。いくら師匠思いだからって、なにもそんなに慌てなくても。

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高座自体は、枕の小三治と呼ばれた柳家小三治師匠も、寄る年波だな……と。ちと長すぎて。もちろんそこは人間国宝、演目自体はさすがでしたし。そもそも、小三治師匠の独演会はチケットが取れないので、自分にとっては初体験。良い思い出です。終わった後の、鍋島先生のなじみの店でのクジラの刺身も日本酒も、美味しかったです。鍋島先生の楽しい話芸が、最高のアテでしたけどね。

けっきょく、有志による送る会は2月2日に。お葬式は親族と近所の友人のみで、自分は出席していないので。未だに実感はないのに、喪失感がある状態です。明日にでもひょっこり現れて、旨い刺身でも食わないかと誘ってくれそうな。でも、そんなことは一生ないんだなという。葬式の後で連絡があった知り合いも、そんな感じですが。葬式って、心の区切りなんですねぇ……。

自分は正直、気が進まなくて。会場に着いたのもずいぶん遅れてでした。どこか、認めたくない部分もあったのでしょうね。六代目笑福亭松鶴が亡くなったとき、兄さんではなく兄貴と呼んで慕っていた笑福亭松之助師匠は、通夜にも葬式にも出席されなかったそうで。六代目の弟子だった笑福亭鶴瓶師匠も、当時はあんなに親しかったのに、なぜ来られないのかと不思議に思っていたそうですが。

自分自身の兄弟子である笑福亭松葉師が、七代目松鶴襲名の直前に急逝され、葬式に出たくない気持ちがこみ上げて。松之助師匠の気持ちが理解できたと語っておられました。一癖も二癖もある弟子が揃った六代目松鶴一門の中で、円満な人柄で知られた松葉師ゆえ、そういう気持ちになられたのでしょう。男兄弟のいない自分も、鍋島先生をアニキと慕っていましたので。

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御供花で、錚々たる面々の中に、自分の名前があるのもおこがましいですが。鍋島先生の御母堂は夫と、息子二人に先立たれという、逆縁。その心中を思うと、自分如きが哀しみを口にしても、意味はないのですが。傍流とは言え佐賀鍋島藩の末裔。今は故郷の長崎に眠っておられるのですが。自分も九州の人間、長崎に立ち寄る機会があったら、オススメの焼酎を持って、墓参りしたいです。
いつか向こうで再会する日を。合掌

売文業者に投げ銭をしてみたい方は、ぜひどうぞ( ´ ▽ ` )ノ