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ある人たちにとってカフェとは

ある人たちにとって、カフェとは、いざとなれば逃げ込める避難場所であるらしい。

これは、でも別に珍しいことでもなんでもなくて、サードプレイスとか都市のアジールとか、これまでにも繰り返し言われてきたことと変わらない。でも、そのことをつい最近、僕はオカダさんがポツリと漏らしたひとことを通して思い知ったのだった。

もう、東京にいる意味がない。

moiがなくなると知ったオカダさんは、たしかにそう言ったのである。

いやいや、さすがにそれはちょっと大袈裟すぎる。それにオカダさん、そもそもアナタ東京出身じゃないですか!! すかさずそうツッコむつもりが、思わずその言葉を飲み込ませるほどにはオカダさんの表情は真面目そのものであった。

正直、僕は意外だった。そこまでオカダさんがmoiのことを大切に思ってくださっていたとは。というのも、荻窪時代に始まるオカダさんとの付き合いはかれこれ十数年に及ぶものの、moiが吉祥寺に移ってからはせいぜい年に2、3回、ひょっこり姿を現すといった程度だったからである。

僕ら店をやっている側の人間からすれば、定期的にお店に足を運んでくださる、いわゆる常連さんの存在は分かりやすい。それは、どうやらmoiのことを気に入ってくださっているらしいという気持ちが、足繁く通うという行動を通して「目に見える」からである。

それに対して、オカダさんのように時々、でも長く通ってくださるお客様の気持ちは少しばかり分かりづらいところがある。同じような頻度でも、たとえば「わざわざ」地方から来てくださるお客様の場合はまた別だ。ところが、そこまで遠いわけでもなく、その上たまに姿を見せる程度だと、きっとそれくらいの距離感なのだろうとつい勝手に当たりをつけて納得してしまいがちだ。

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だが、あらためてオカダさんのひとことを反芻してみて気がついた。

おそらくオカダさんは、元気がなく、どこかにふと逃げ込みたい感情にとらわれたときmoiに来ていたのではないか。

そう思うと、あの人も、またあの人も、きっとそんな風にmoiに来ていたのではないかという顔が次から次へと思い浮かんでくる。

カフェの人は、コーヒーを売り代金を受け取る「経済の人」でありながら、また同時に目には見えないほのぼのとした気持ちをやり取りする「ケアの人」である。さらに言えば、居場所の番人でもある。

経済の人の立場から眺める時、迂闊にも、僕らはオカダさんのような人たちの気持ちをすっぽり見逃してしまいがちである。事実、日々カフェを経営しているそのさなかにあって、僕はそのように店を訪れる人たちの存在をちゃんと見ることができていなかったように思うのだ。

最後の最後、そのことに思い至らせてくれたオカダさんに僕は心の底から感謝している。

*あす10月29日13時より16時まで板橋区赤塚新町3丁目のMUJI BASE 光が丘にて「喫茶ひとりじかん」開催です。詳細は、kissahitori.tumblr.com をごらん下さい。

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2002年より2019年まで北欧フィンランドをコンセプトとするカフェ「moi」を経営していました。渋谷のBunkamura→荻窪、吉祥寺でのカフェ経営を経て、日本とフィンランドとをつなぎつつ自由な発想による〝居場所づくり〟を構想中。http://www.moicafe.com
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