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(2024:その01) 百日のさしづ

先日の講社祭でお話した講話です。
これからもっと勉強すべき内容だとは思いますが、色々とおや神様の御心を想像しながら、自分自身がどうあるべきかを考え続けていきたいと思います。
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本日は百日のさしづについてのお話をしたいと思います。(かしわ手)

昨年11月に天理に行った際におやさとbooksで買った「百日のさしづ」についての飯降俊彦本部員と平木一雄本部准員の対談本を読んでいる最中ですが、現段階で思うところをお話したいと思います。

百日のさしづ」とは、『十年間掛かる話を百日に縮めて話する』という意味のおさしづがあって、それからきた呼び方で飯降伊蔵本席様が亡くなられる約3カ月前から始まっています。

百日のさしづの冒頭では、
明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分
平野楢蔵とお話ありし時、俄かに刻限の話
『一万二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。
これでは働けるか 働けんか。
さあしっかりせい。
教祖にこの道譲りて貰(も)ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何とぼけて居る。
さあ/\今日はどういう話仕掛けるかも分からん。
さあ皆用いるか/\。
用いらねば世界へどうしてどうして詫びするか/\。
これ知りて居るか。
年限数えてみよ/\。
いつまでこんな事で通るか。
道は、皆継目あるで/\。
継ぎ目知りて居るか/\。
知らずに何と呆けている/\。
皆んな取り損ないして居る/\。
教祖という道内から潰(つぶ)して居る。
世界の道で立ってあるか/\。
学問で立つと思うか。
さあ/\世界の機械は何時(なんどき)なりとある。
何時なりと買えるで。
神の機械あるか。
あらしょまい。
神の機械は、年限の理続くが神の機械である。
これ一時に聞き分けて今日に返事して来い。
さあ手の空いた者席運べ/\。
今の席四席連れて来い。
さあ/\決まるもの決まりて来い/\。
早くこういう決まりして来たと言うて来い。』
このおさしづにはいろいろなおや神様の想いが込められていると思います。また、お道の明治四十年の三月十三日の状況が手に取るように分かるようなおさしづです。
このおさしづがいわゆる「百日のおさしづ」の第一声になっています。
明治三十九年陰暦正月二十六日が教祖二十年祭でしたので、これはその翌年約1年後のおさしづになります。
このおさしづは以前から神様が本部側に申し出ていた上田ナライト様が入り込まれる場所の普請を急き込まれていたおさしづに対して、本部会計掛だった増野正兵衛さんが本部会計が1万二千円足りないからそんなの無理だと人間の状態だった時の飯降伊蔵様に酒を飲んで愚痴を言っていたことをおや神様がお諭しされた内容だったそうです。

まだ十分にこの本を読んだ訳ではございませんが、おや神様が無理にお金を要求しているという訳ではなく、やっていることの順序・優先順位・道理・理が違うという趣旨の話をされている内容です。

神様は理(道理、ルール)を大事にされます。

どういうことかと申しますと、当時はおさずけの理を渡す御用は本席様がされておりました。おや神様が本席様に降りられ、直々に伺い人の魂を見定めておさづけの理を授けられていました。

当時は1席で3名の方にお渡しになっていたそうです。

天理教教団は、おや様が出直された後は本席様がご神託をつなぎ、そしておさずけの理をお渡しになることで、おさずけの理を戴いた先人方が日本各地で様々な不思議なたすけを戴くことで教勢を烈火のごとく伸ばしていっていました。

つまり、おさずけの理を渡すことでおさずけの効能を戴き、おさずけをすることで不思議な人助けができて、その結果としておや神様が人間にようきぐらしをして欲しいという想いが日本全国津々浦々に拡がっていき、徐々に人間の心が建て替わっていくというおや神様の計画があった訳です。

当時の御本部の会計が何にお金を使って何故赤字なのかの詳細は分かりませんが、おや神様にとってみればおさずけの理を渡すことが神様の教えを人間達に認識させるためにはとても大事だった訳です。

そのおさずけの理を渡す御用を近い将来担わなければならない上田ナライト様に対して、それ相応の尊敬の念をもって対応する体制を整えてやることがおや神様の真意であったと思います。

しかし、当時は上田ナライト様は本部内では一女性婦人の立場ですから軽く扱われていたのではないかと思うのです。

それを見ていたおや神様が、理が違う、優先順位が違う、と御本部の人間心に対してお叱りになったということかと思います。

また、『継ぎ目知りて居るか』とも言われています。

継ぎ目とは、さずけの理を渡す役目のことを言っておられるでしょうから、やはりナライト様の立場が如何に大事かと力説されているのではと考えられます。

喜び勇んでブログhttps://yorokobi-isannde.com/によりますと、****************************************
明治40年(1907)6月6日夜、ナライト先生45歳の時、はじめておさづけの理を渡され、その3日後に本席が出直した。
ナライト宅は間もなく完成し、ナラトメ、楢太郎とともに移り住み、そこから、黒の紋付に黒の丸帯をしめて、本部へ出掛け、お運びをつとめられます。
 大正6(1911)年、ナライトの病気から、ナライト宅にお運び場所を普請され、竣工後は、そこでおさづけを渡されます。
翌大正7(1912)年3月、 再び胃腸の病となり、中山たまへがおさづけを運ぶことになり、ナライトはつとめを了えられます。
その後、病気は全快し、御供の紙を折ったり、針仕事や庭木の手入れなどをして、静かに暮らした。
昭和12年1月12日に出直し。享年75歳。****************************************
との記載があります。

つまり、本席様が亡くなられる3日前にナライト様がさずけの理を引き継がれて、それから約5年間おさずけを渡される御用を務められたが、体調を崩されてその後は中山たまへ様(おや様のお孫、初代真柱様夫人)がおさずけを渡されるようになったということです。

また神様は『十年間掛かる話を百日に縮めて話する』と言われていますが、この「十年間」という意味は非常に重大な意味があるのではないかと思います。

なぜ十年間の話を百日で諭さなければならなかったのかということの意味は、
『天啓を告げられる魂の方が今後10年間は出てこないので今の内におや神様として言うべきことを前もって言っておく。』
と言っておられるようにも感じます。

何かの本で、本席様が亡くなられた後の10年後、つまり教祖三十年祭の時にまたおや神様が表に現れるという信仰が当時の天理教の中にあったと聞いたことがあります。

多分、この百日のさしづをもってそう信じられていたのではないかと思います。

果たして、教祖三十年祭の際には天理教団の中からご神言を述べられる方はでられておりませんが、それに対するおや神様の真意がどうであったかはわかりません。

ただ、おや神様は本席様ご存命の間までは直接私達人間に語り掛けてこられましたし、その結果としてお道の隆盛を見ていました。

この現代ではもうおや神様のご神言が不要とおや神様自身が思われているのか?

本席様の時代まででおや神様の想いは全て伝えきっており、おや神様は自分の出番はもう不要で人間達に全てを任せていいと思われているのか?

と考えはしてしまいますが、今の世界の情勢を見ますとまだまだ人間にだけ任せていい状態ではないと思いますので、この本を読みながら現在のおや神様の想いはどこにあるのだろうかと日々考えている次第です。

この本をもっと読み進めたらもっと違った視点、気づきを得られるかもしれませんのでその際は別途続編のお話をしたいと思います。

以上つたないお話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

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