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(20230820上々々級教会月次祭神殿講話) 不思議な体験・元の理・かしものかりもの

8月20日に上々々級教会月次祭で私がした神殿講話の原稿です。
ちょううど30分の講演になりました。
参拝者は大人約50名、子供約15名でした。
終わった後に、5人の方(ほぼご年配の方)から、
『最初はむずかしい話だったらいやだなぁ~と思っていたけど、、、
よかったわぁ~いい話が聞けたわぁ~』というようなことを言われました。
老人受けする内容だっただろうか??
若者からもコメントが欲しかったなぁ~


以下神殿講話の原稿です。**********************************************************************
本日は、1年前に私が体験した不思議な体験とそこからの元の理・かしもの・かりものについてお話したいと思います。(かしわ手)

 冒頭でいきなりですが、私の大教会での神殿当番の担当日は毎月29日になっております。
昨年2022年6月29日の神殿当番での出来事についてお話します。
昨年までの大教会の神殿当番とは、30分交替で神殿の結界の中の神前に向かって右端の八足の前で教服を着て杓をもったまま正座するものです。(今は神殿の右手前の参拝者様と距離が近い位置に移動しています。)
神殿当番をされた方ならば分かると思いますが、大教会の神殿は月次祭の時と違って普段はエアコンは効いておりませんし、30分じっと座っているのは意外と時間が長いもので時計を見ながらあと10分、あと5分と思いながら座っていました。
当時の私は座っている間は頭の中で何を考えるでもなく、ただ目をつぶっているか、神殿横の竹林が風に揺れているのをじっとみているような状態でいました。

 ただ、6月29日の16時から着座した時、5月末に亡くなられた部内教会の前会長さんのことなどを考えながら、
『人間の生きる意味・人生とはなんなのだろうか?』
と、漠然と考えながら目をそっとつぶりました。
着座して目をつぶって一呼吸おいた瞬間なのですが、意識が体から離れたようななんとも言えない不思議な感覚に入り込みました。
自分の意識が頭の上からすっと上昇していって、天界というか宇宙全体というかこの世界と意識が一体になったような感覚になりました。
その瞬間に次の3つの事が理屈や学問や読み物からなどではなく、心の奥から瞬間的に理解できたというか、実体験したというか、仏教でいうと悟りを得たというか、全ての真理が分かったかのような感覚になりました。

その3つとは以下のことです。
・この宇宙・地球とは神様がつくられた世界であるということ。
・この神様が作られた世界の中にあるこの自分の体とは一時的に今
 まとってはいるが、自分ではあると同時に自分ではないということ。
・この自分の体をまとってこの世界に自分が存在する理由とは、神様が
 望まれたこの世で人間が陽気遊山の暮らしを体現する魂になるためで
 あるということ。

『あ!そういうことだったのか!!』
と一瞬で全てが理解できた感覚になった瞬間に、はっと意識が自分の体に戻って目を開けました。
たった今目をつぶった筈なのに、時計を見ると既に30分が経過しており自分の神殿当番の時間が終わっていました。

 私ごときがこのようなことを言うとおこがましいのですが、お釈迦様が菩提樹の木の下で悟りを開いた時とはきっとこのような感覚だったのではないかと思えるような出来事でした。

 また、同時にこの世の理(ことわり)の全てが理解できたという感覚にもなって、今生での生きる目的はもう達成したようにも思えました。もう死んでもいいとも思いました。

(家に帰って妻にこの体験の話をして『もう死んでもいいと思った。』と言ったら『結婚したばっかりで何言ってんのよ!』と怒られました。)

 その瞬間から頭の中の回路が組み変わったような、また、なにか現実と非現実の区別がつかないような感覚になり、表現を変えると魂が半分抜けたような状態になりました。

 大教会でのこの体験はなんだったのだろうかと自分でも良く理解できませんでしたが、神殿当番が終わって大教会から車で自教会に帰る途中の車の窓から見える平野の水田や山並みの緑、初夏の夏のきれいな青空の中に浮かぶ白い雲をみていると、なんとも美しく、私が生きていたこの世界とはこんなにも美しかったのかと初めて気付き、その景色を見て恍惚とした感覚になりました。
自分はこんなにも美しい世界の中で生かされているとともに、この美しい世界の一部でもあるとしみじみと実感することができました。

 この世の中においては私達人間の魂はこの体に縛られているので、この美しい世界に生かされていることを忘れがちになり、自分の周囲に起こる人間関係や色々な事情・身上に悩み苦しみます。しかしながら、この体は神様から一時的に借り受けたかしもの・かりものの体であり、自分の魂はその体に一時的に入り込んでいるだけです。
そして、この体を使える時間は1回の人生では長くても115年というほんの一瞬であり、その短い人生の中で神様が望まれる陽気遊山を体現できる魂になっていくことがこの人生の目的であるということを心の底から真理として理解できると、今までの自分の人生で悩んでいたこととはほんの些細な一瞬の出来事であり、そこまで悩む必要もないものであったとも思いました。
それらの悩みは一時的に見せられてはいますが、それは本質ではなく、その悩みとは陽気遊山ができる魂となる為の人生の砥石でもあるとも理解できました。

 人間の本質とは神様から分け与えられた分け御霊である魂であって、神様が九億九万九千九百九十九年かけて作ってくださった生命としての人間の体を今生で一瞬の間まとって、この貸し与えられた体を使っていかに自分の魂を神様が望まれるより良い方向に向上させて行けるかどうかが大事なのだなとも理解しました。

 元の理では、神様が人間を創造された目的とは、この世に人間という生命を作り、その人間という生命同士が陽気遊山の世界で助け合って楽しんで暮らすのをみて共に楽しみたいからだと言われています。
また、人間を創造する為に神様が3度のやりなおしを経て、九億九万九千九百九十九年という非常に長い年月をかけて苦労されてこの人間という生命を作ってくれたことが示されています。
また、自分の本質とは魂であり、この体はかしもの・かりものであり、この体は我がのものであっても我がのものでもないと教えられています。
この人間という生命体での寿命が来たら、魂は一旦体を脱ぎ捨てて、また次の新しい体をまとってこの世に生まれ出でてくると教えられています。
以前からこのことは頭ではなんとなく理解はしていたのですが、この大教会神殿当番での不思議な体験は、自分自身がこの世界と一体となる感覚を体験することで、元の理がおとぎ話などではなく、実際のことであったと本質から一瞬で理解できた瞬間でした。

 私は大教会会報の令和4年9月号に寄稿しておりました通り、25年間勤めていた以前の会社でパワハラにあって躁うつ病が悪化して1年間休職することになりました。
その結果、家庭が崩壊して離婚し、精神病院にも4か月入院しました。
当時は、精神科のお薬を1日20錠程度飲んでいた上に、ストレスから逃げる為の飲酒量も多く、精神状態も不安的で、うつろな目で手や声も震えて廃人の一歩手前の状態でした。
その後、修養科に行くことで生活習慣を立て直して病状が以前よりは安定し、休職1年後に会社は正式に退職して叔父が経営していた地元の会社に戻ってくることになりました。
その後、会社の方では社長も任されて、更にその1年後は会社の社長と兼務で自教会の会長も拝命致しました。

 その間、病気の方は徐々に回復傾向にはありましたが、それでも1日に10錠程度の精神科のお薬を飲み、ストレス発散の為に好きなお酒の晩酌も続けていました。
しかし大教会の神殿当番で不思議な体験をした瞬間から、気分を安定させるために1日10錠程度飲んでいた精神科のお薬を飲むと逆に調子が悪くなって全く飲めなくなりました。

 それまでは精神科のお薬を飲まないと気分が酷く落ち込んだり、昂ったりしていたのですが、現在まで1年以上お薬なしで過ごしていますが気分的には特段問題がない状態です。

 また、あれほど好きだったお酒も飲むと逆に体調が悪くなり、今ではお客様とお付き合いで飲む時以外は飲まなくなりました。

 私にとって、20年以上苦しんでいた躁うつ病とはいったい何だったのだろうかと改めて思っています。

 ストレスを発散するために飲んでいたお酒の意味とは一体何だったのだろうかと思っています。

 この精神科のお薬・お酒を全く飲まない状態の自分が今回の人生での本当の自分の姿なのだと改めて気づきました。
当然人間ですから、今でもストレスはありますし、気分の浮き沈みもそれなりにはあります。
しかし、病的ではない状態になってしまいました。
逆に気力・精神力、知力・頭の回転力、体力は1年前より格段に良くなり、実年齢では10歳以上若返った感じがしています。

 また、この体験によって自分が生かされている意味とは何かが分かりましたので、私は今回の人生で与えられた自分の残りの人生を精一杯生きていかなければいけないと思い直しました。

 会社においては、天理教の教会長が社長として経営するならばこういった会社にしたいと次のような会社運営方針を社員の皆さんに対して出しました。
『電力会社向け電力制御盤を作ることで世の中に貢献し、技術力をもってこの仕事にやりがいを感じ、その上で社員の皆さんが安心して働けるよう福利厚生やお給料も今まで以上に改善できる会社にしていきたいので是非一緒に頑張って欲しい。』
自分自身も一から電気の勉強をしながら、以前の会社時代の知識・経験をフル稼働させて率先して社員の先頭に立って、日々悩みもがきながら頑張っています。

 教会の方も現在教職舎を普請中ですが、普請の目的は色々な信者様方を受け入れられるような施設としたいということですので、信者様方に寄り添い、地域に密着した活動をしていきたいと思っています。

 神様からいただいたこの体はどんなに頑張ってもせいぜい115歳までしかもちません。私の残された寿命もあと20年~30年程度かもしれません。
でもそうであるならば、その残された人生でやるべきことはまだまだ沢山あると思っています。

 この体の寿命が尽きて、今回の人生を終える時には、神様に対して、
『今回の人生では色々なことがありましたが、結果的にいい人生を送ることができました。私の今回の人生をほめていただけますか?』と自信をもって言えるように残りの人生を送っていきたいと思っています。

**********以下講演中に飛ばした原稿**********
冒頭に申し上げました
・この宇宙・地球とは神様がつくられた世界であるということ。
・この体とは神様がつくられたもので、自分のものであって、自分
 のものではない。
・この世に存在する目的は陽気遊山を送れる魂を目指すこと。

 この点だけ理解できれば、自ずとこの人生をどう生きていったらいいかは分かってきます。
天理教ではこういった時はこうしたらいい、ああいった時はああしたらいいと色々なケースが教えられてきてはいますが、それはあくまでこの点を理解して実践することを前提にしているものだと私は考えています。
ですので、細かい事象に目を捉われることなく、大きい視点でこの3点を踏み外さないようにすることが大事なのではないかと思っています。

 ここにおられる皆様方に改めて申し上げることではないかもしれませんが、是非、『元の理』と『かしもの、かりもの』の意味をしっかりとかみしめていかれたら如何かと思います。
そして、『元の理』と『かしもの、かりもの』が正しいとしたうえで、今回の皆様の人生をどうより良いものにするかという視点で生きて行かれては如何かと思います。

 今回の人生でこの点を十分に理解できれば、次回の人生では更に神様の望まれる魂となってこの世に生まれいでてくることができると思います。*********************以上講演中に飛ばした原稿**********************

最後になりますが、私も皆さまと共に残りの人生を精一杯生きていきたいと思いますので、今後ともどうか宜しく御願い致します。

以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

 

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