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主たるもの

先日、久々にどぎつい感情に囚われ、苦しい数日間を過ごすことがあったのですが、そこから解放されるまでの過程で色々と気づくことがあったので、書いておこうと思います。

突然の嵐

発端は、私自身の気まぐれでした。

一時は寝たきりになってしまった愛犬でしたが、ひょんなことからまた歩けるようになり、今は、老犬なりに元気に過ごしています。

気持ちが落ち着き、生活にも少し余裕ができたので、いつまた目が離せなくなるかわからないし、今のうちにちょっと実家の片付けをしておこう、と思ってしまったのです。

どこから手をつけようか、と両親と相談しているうちに、自分でも驚くほどの怒り、悲しみ、やるせなさが湧き上がってきて、その後、まったくやる気がなくなり、動けなくなってしまいました。

ああ、これは、心のボイコットだ。

自分自身の状態に、表の私は戸惑いつつ、中の私は納得しているのを感じました。

ああ、私は、本当はやりたくないのだなあ。

ぐるぐる渦巻くこの感情の根っこにあるものは何なのか、探ってみるも、色々な感情がごちゃ混ぜになっていてよくわからないし、苦しいし、パッタリと何も手につかなくなってしまうほどの脱力っぷりで、まいりました。

まいった。

だから、私の心よ、頼むから、何が言いたいのか教えてくれーい。

救世主現る

出口を探してもがいていた時、ふと、先日の記事に書いた自分の言葉を思い出しました。

在るがままの自分では認められない、のだろうか。
在るがままの自分では愛されない、のだろうか。

愛犬と向き合っていると、そんなことないんじゃないかな、と思うのです。

だって、少なくとも私は、在るがままに在るだけの愛犬のことを、愛しているから。

根拠は、それだけです。

自然体で生きる / moimoi

その瞬間、自分の言葉が、ものすごい説得力を持って、スッと私を落ち着かせてくれました。

ああ、大丈夫だ、どんな私でも愛される。

と、自分が自分を丸ごと認め受け入れた時、ぐるぐるの私は、ようやくホッとして解放されたのでした。

異常性のルーツを探る

片付けをすることに関して、なぜこうも感情を揺さぶられるのだろう、と思った時、ある記憶が浮上しました。

ごちゃごちゃした家の中、あちこちにやたらと物を置く母や祖父母に、片付けろ、と声を荒げる父の姿と、そんな家族の様子を眺めながらいつも心がキュッと緊張していた私。

いつの頃からか、ごちゃごちゃしているのが嫌で、片付ける癖がついてしまったのだけれど、子供だったあの頃の私はきっと、すぐに不機嫌になる父に恐怖し、家庭円満を願うがゆえに、変な癖をつけてしまったのだろうと思います。

長年蓄積された感情が一気に溢れ出したのだと考えれば、なるほど、納得の破壊力です。

私がやらなきゃ誰もやらない、と思っていたのだけれど、私がやるから誰もやらない、というのが本当のところで、私がやらなきゃ誰かがやるんだろうなと、感情が落ち着いた今は、そう思います。

自分自身の片付けに対するちょっと異常なこだわりのルーツを知ったところで、意外にも、自分を恐怖させていた当時の父に対して、同情の気持ちが湧いてきました。

長女を嫁に出すことを祖父母が嫌ったために養子になった父、当時は養子ということで嫌な思いをすることも多かったと聞く、そんな父が大工として一人前になり頑張って自分で建てた家に、一切の援助なくちゃっかり同居を決め込んだ祖父母、思い描いていた生活は叶わず、少しずつ確実に祖父母の物で汚染されていく我が家。

母は母で、そんな父の味方になるでもなく、仕事仕事仕事、だったし。

そりゃ、片付けろ、と声を荒げたくもなるか。

私は父で、父は私、なのだ。

私が感じてきた怒り、悲しみ、やるせなさを、父もきっと、嫌というほど感じてきたのだろうなあ。

つらかったね。

受け止めるのはなかなかしんどかったけど、ありがとう、声をあげて、気づかせてくれて。

過去は変わらないけれど、過去の捉え方が変われば、今が変わる。

この経験を経て、実家の片付け問題は、私にとってはもう問題ではなくなったので、今後はたぶん、うまいことなんとかなっていくのだろうと思います。

もうひとつの記憶

なぜ今、こうしたことが起こったのか。

今には、自分の心のありようが反映されていて、常に、自分にとって最適なことだけが起こっている、と私は思っています。

今回、嵐のような感情に見舞われ、愛犬の身体に顔をうずめてモフモフ慰めてもらっている時に、ああ、私の心が本当に伝えたかったことは、こっちだったんだなあ、と感じたことがありました。

小学生の頃の記憶です。

運動会の日、お昼休憩の時間になっても、お弁当を持って来てくれるはずの家族が誰ひとり来てくれていない、ということがありました。

待てども待てども来ないので、先生に相談して、家に帰る許可をもらいました。

泣きながら家に帰って居間をのぞくと、家族はお弁当のおかずをつまみながら、のんびりと笑い合っていました。

あまりのショックに、家族には声をかけられず、庭の犬小屋のところへ行って、静かにしくしく泣きながら犬をなで、私の気持ちに寄り添ってくれるのはこの子だけだ、と思いました。

私の犬好きのルーツは、ここにあったのです。

いずれ訪れる愛犬との別れを前に、私には、やるべきことがあるようだ、と感じました。

心のアップデートをする時だ。

今の私には、寄り添ってくれる夫がいるし、何より、私が私を絶対に幸せにするから、大丈夫。

強がりでなく、本当にそう思ったのです。

そう思ったら、過去の私は安心して、ふっとほどけていきました。

創造主でもある

そういえば、時間差で届いたから気づかなかったのだけれど、感情に囚われてしまってどうしようもない、という体験がしたいと、ちょっと前にチラッと思ったんだった。

そこから解放されるまでの過程を、再確認したかったし、たぶん、書きたかったのです。

もう一度書きますが、今には、自分の心のありようが反映されていて、常に、自分にとって最適なことだけが起こっている、と私は思っています。

思っているのですが、今回の経験を通して、さらに腑に落ちました。

世界は、面白いほどに自分自身なので、その世界で苦しむ人も、苦しめる人も自分自身だし、救う人も、救われる人も自分自身です。

本当は、敵も味方もいないし、傷つける人も傷つく人もいないし、そもそも自分以外の人もいないのだけれど、いるように見えるのは、観念があるからです。

反発すれば反発されるし、受け入れれば受け入れられる。

どのような観念が自分にそう信じさせているのか、目の前の出来事に反映されている観念をひとつひとつ見破っていくと、全部自分だったのだ、とわかります。

観念がほどけると、世界が変わったように見えるのだけれど、そうではなく、そもそも全部自分が創っている、ということなのだろうと思います。

もれなく誰もが、救世主であり、創造主である。

私たちは、とんでもなく面白いツールを、すでに手にしているみたいだ。

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