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共感と反発

深掘る

前回の記事で、こんなことを書きました。

真逆に見えて、共感も、反発も、同じもののように感じられるんですよね。

その裏にあるもの / moimoi


自分でも、なぜそう感じられるのかはわからなかったのだけれど、ただ、確信めいた感覚だけはありました。

そんな感じで、無意識にさらっと出た言葉だったので、ちょっと深掘りしてみようと思います。

他人は自分の一部

まず、共感も反発も、「そこに自分自身を観ている」という点では、同じものなんじゃないかと思うのです。

人間は、自分以外のものを通すことでしか、自分自身を知ることはできないから。

他人の中に、受容できている自分自身を観る時は「共感」となり、受容できていない自分自身を観る時は「反発」となる、ような気がします。

多くの知識や経験から、何を自分のアイデンティティとして採用し、人格形成をしていくか。

たぶん、シンプルに考えてみると、好ましく感じられるものは採用し、好ましく感じられないものは採用しないと思うのです。

憧れのあの人のようになりたい!と思えば、その人の考え方や行動を意識的に真似してみたり。

あいつのようにはなりたくない!と思えば、その人の考え方や行動は意識的に避けてみたり。

自分自身の人格形成をしていくにあたり、採用か不採用か、という違いこそあれど、どちらも「自分の一部である」という点では、同じだと思うのです。

ここでひとつ、疑問が浮かびます。

不採用なら、自分の一部とは言えないんじゃないの?

意識的に真似していることを、自分の一部だと認めることは簡単ですが、意識的に避けていることも、自分の一部なのだと認めることは難しいです。

言語化するのが難しいのですが、あえて挑戦してみます。

あの人のようになりたい、という起点。
あの人のようになりたくない、という起点。

起点がなければ、その後の展開もありませんから、不採用のものであるとはいえ、意識している時点で、それはもう自分の一部と言えるんじゃないかと思うのです。

共感や反発といった感情は、自らの経験の記憶とそれに紐づけられた感情、つまり「観念」によって、呼び起こされます。

目の前で自分以外のものたちが繰り広げている光景を、自分の目を通して「客観的」に見ているようで、実は、自分の観念(記憶や感情)を通して「主観的」に観ている。

つまり、自分の中にないものは、自分の心には映らないのです。

逆に言うと、自分の心に映っているものは、自分の中にあるものなのです。

だから、他人も自分の一部、なのだと、私は思っています。

だが同じではない

「愛と憎しみは表裏一体」という言葉があります。

共感が反発に、反発が共感に、瞬時に変わることだってあります。

先に書いたように、そもそも、目の前で自分以外のものたちが繰り広げている光景を「主観的」に観ているので、自分と他人との境界はとても曖昧です。

個々の肉体を持っている以上、自分と他人との境界はあるのだけれど、意識のうえでは、自分と他人との境界はない、のかもしれません。

でも、人それぞれに、違う人生を歩んでいますので、自分と他人との境界線を保つことは必要です。

「あなただけはわかってくれると思ってたのに、裏切られた」

なんていう時は、境界線を超えてしまっています。

共感から反発に、瞬時に変わる時です。

知っておかないといけないことは、目の前の相手は、自分ではない、ということです。

当たり前ですが、自分と他人が全く同じ人間である、なんてことは、あり得ないのです。

陰陽和合

とはいえ、自分と他人は違う人間だから、と、スパッスパッと境界線を引き続けなければいけない、というわけでもないと思うのです。

それは、自分自身の可能性を断ち切ることにも繋がります。

例えば、おせっかいな人がいて、その人のせいで、やりたくないことまでやらなければいけない羽目になり、嫌な思いをしたことがあったとします。

あの人の、おせっかいすぎるところが嫌い。

あの人のようにはなりたくないから、私は他人に余計なおせっかいは焼かないわ、と自分を戒め、それを自分のアイデンティティとして生きている。

そんな時、体調を崩すことがあり、その人のおせっかいによって、ものすごく助けられた。

おせっかいも、時には必要で、時にはものすごくありがたいものなのだと、身をもって知った。

こんな経験をすると、「おせっかいを焼く人」に対する、自分の観念は変化します。

おせっかい=悪(陰)だったのが、
おせっかい=善(陽)とも思える経験を通して、
おせっかい=時に悪であり時に善である(陰陽和合)となります。

全ての要素が自分の中に溶け込むので、以後、おせっかいな人が目の前に現れても、その人を「陰陽和合」の目(観念)を通して観られるので、以前よりは、心穏やかに受け入れられるようになるのではないでしょうか。

こうして、自分の中にある「排除したい存在」に対する観念をひとつひとつ陰陽和合させていくと、全てを受容できるようになり、全てが自分を構成する要素となるので、この世界に「敵」がいなくなるのです。

嫌いなあいつも、自分の側面なのだ。

そう私が思うのは、嫌いなあいつこそが、自分の可能性を大いに広げてくれる存在であるからだ、と考えているからです。

どうしても言語化したかったことが、ようやく書けました。

必要な人に、届きますように。

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