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感情がほどけたら

感情と執着

日々、様々なことが起きていて、様々なことを感じながら生きています。

先日の記事↓にも書きましたが、私は、強い感情に覆われている時は、それにどっぷりと浸るようにしているのですが、感情を見続けていると、どんな感情でも、しばらくするとほどけていってしまいます。

そうなると今度は、私って、さっきまで何を感じてたんだっけ?となってしまい、自分のことなのに、よくわからなくなってしまいます。

私ってなんだっけ、と、まるで自分がいなくなってしまったかのような、妙な感覚に陥ります。

自分の感情がほどけてなくなり、思考のとっかかりとなるものがなくなると、何事にも執着できなくなってしまうのです。

不思議なもので、ついさっき強く心を動かされた出来事を思い返してみても、まったく心が動きません。

ふーん、といった感じで、流れゆく景色を眺めているのと同じ感覚になります。

まったくフラットな視点に立てるという点では良いことなのかもしれませんが、これはこれで、なんだか味気ない気もします。

執着というと、捨てなければいけないような、なんだか良からぬものといった印象がありますが、私というものをカタチ作り、行動の活力となってくれるものでもあるので、生きていくうえでは、ある程度必要なものなのかもしれません。

無の境地

面白いもので、過去の出来事を思い返す時、甦ってくる自分の感情がないと、同じ出来事なのに、全く違う体験になります。

感情がない、執着がないと、特定の視点に立てないので、全体を眺めることしかできなくなります。

良い悪い好き嫌いなどの価値判断もできないので、自分を含め、誰が何をし、何を考え、何を感じても、なんでもいいよ、という感じになります。

無、です。

無の境地に立って全体を眺めると、何が起こっていても大丈夫なんだな、と感じます。

自分だけの偏った感情に覆われている時は、そんなことは、すっぽりと頭から抜け落ちてしまっているのだけれど。

感情に覆われている時は、自分だけの色眼鏡で世界を見ているので、それはそれで、ピンポイントの学びが得られて良かったりもします。

近頃、自分の人生を生きていて、その感覚も感情もあるのに、それを外からぼんやり眺めているような感覚になることがあります。

自分の人生が、自動操縦に切り替わるというか。

外からぼんやり眺めていても、私の人生は自動で進んでいくのだろうなあ、とか思ったり。

なんだかよくわからないのですが、こんなことって、あるんだなあ。

シーソーゲームからの脱出

自分の感情がほどけて無の境地になると、他者とのエネルギーのシーソーゲームから距離を置けるので、エネルギーに翻弄されがちな私としては、とても楽です。

あの人に会うとどっと疲れる。
あの人に会うと元気をもらえる。

そういうことって、あると思います。

しかし、他者とのエネルギーのシーソーゲームと思っているものは、実は、自分の一人相撲です。

感情に覆われている時は、そういったことを理解しにくいというか、そんなもん理解したくない、なんてことを言いたくなるのですが、自分の感情をほどくと、なるほど確かに、とすんなり納得できてしまうのです。

例えば先日、こちらの記事↓に書いたように、「子どもの気持ちそっちのけで子どもを管理コントロールしようとする親」に対して、私は腹が立ち哀しい気持ちになりました。

言いかえると、この出来事により、エネルギーを消耗させられました。

あえて書いておきますが、自分の心には、感じるままに、感じさせておけば良いのです。

しかし、先に書いたように、感情は見続けていると、ほどけてなくなってしまいます。

無の境地になり、改めて思い返してみたら、それはそれで良い面もあるし学べることもあるよなあ、どんな選択をしてもいいよね、と思いました。

これは、頭で自分にそう思い込ませようとする感じ、とは違います。

私の中の、他者に管理コントロールされることに対する拒絶感が、それらしきものに反応し、勝手にダメージを受けてしまったのですが、相手はたぶん、そんなつもりはさらさらありません。

その人にとっては、その価値観が、その行動が、「愛」なのかもしれません。

他者にとっての「愛」かもしれないものを、自分の感情という色眼鏡を通して見ることで、違うものに変換して見ていたのは、私なのです。

他者の行動によってエネルギーを奪われた、ような気がしていたのだけれど、別に何も奪われていなかったことに気づきました。

とはいえ、奪われたと思ってもいいし、奪われていなかったと思ってもいいし、その時の自分で思いたいように思えばいいと思うので、自分を責めるつもりもありません。

愛のカタチは、人によって様々です。

無の境地に立って世界を眺めてみると、全部愛じゃん、と思うのですが、なぜでしょう。

なんだか、神さまの思惑に、まんまとハマっているような気がします。

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