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悪の表現

悪意とは

先日、映画「君たちはどう生きるか」を、もう一度観てきました。

二度目なので、初見ほどの衝撃はなかったけれど、自分の中にじわじわ浮き上がってくるものがあったりして、これはこれで面白い体験だなあと感じています。

気になったのは、「悪意」という言葉。

よくよく考えてみれば、わかるような、わからないような。

悪意って、なんだろうな。

パン屋再襲撃

そんなことを考えつつ過ごしていると、夫がオーディブルで「パン屋再襲撃(村上春樹 著)」を聴き始めました。

村上春樹さんの、「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」といったことを言いがちなちょっとクセのある表現に久々に触れ、懐かしく興味をそそられて、私も聴くことにしました。

何年か前に一度本で読んだのだけれど、改めて読む(聴く)と、また違う発見があって面白い。

さらに面白いと思ったのは、読後感が、「君たちはどう生きるか」を観た後の感じと似ていたことです。

なぜだろう。

何年か前にこの本を読んだ時は、なんだかわけがわからない、という印象を受けただけで終えてしまった気がします。

でも今回は、ああ…なるほど!面白いなあ、と思えました。

物事は、出会うタイミングで、こうも受け取るものが違うのですね。

パン屋を襲撃する。

表側だけを見れば、その行動は、わかりやすく「悪」なのだろうと思います。

でも、裏側を知れば、それを「悪」とひとくくりにしてしまって良いのだろうか、ということがあったりします。

世の中には、悪意のある悪行、悪意のない悪行、悪意のある善行、善意のある善行、善意のある悪行、善意のない善行など、色々あると思います。

ほんと、悪意って、なんだろうな。

山田ズーニーさん

さらに考えを巡らせている時、ふと、ずいぶん前に読んだ、山田ズーニーさんの文章を思い出しました。

ほぼ日刊イトイ新聞で「おとなの小論文教室」というコンテンツを担当されている山田ズーニーさんの、ある日の文章。

もう一度読みたくて検索してみたら、ありました。

何年も前に読んだものなのだけれど、ここに書かれていたことは、ずっと私の心の中に残っていて、たびたび引き出しをあけてのぞいては、またしまっておく、という記憶のひとつでした。

この文章に出会った当時、山田ズーニーさんが「大変感銘を受けた」ことが、その文章を通して、私の心にも色鮮やかに伝わったのです。

国民的スターとして、圧倒的に光のなかを歩んできた俳優が、どうしても「悪人」をやりたくてやりたくて、自ら映画化を売り込んでまで悪人役を獲得し、2年間、自分と役との境界がなくなってしまうまで、悪の表現にのめりこんだ、という事実に、表現教育に携わる者として、大変感銘を受けた。

悪の表現 / 山田ズーニー

そして、こんなことを書かれています。

100%良い人のレッテルを貼られてしまった人の、表現されない「悪」は、どこいくんだろう?

確かに、どこいっちゃうんでしょうね。

人間というものは、誰しも、より良い人間でありたいと願うものなのでしょう。

でも、より良い人間であろうとすればするほど、光を求めれば求めるほど、闇もセットでついてくる。

それが、自然の摂理です。

どこかに消えていっちゃうなんてことはなく、どこかに溜まっているのだろうと思います。

事件の犯人が意外な人物だったとき、あんなに良い人がなぜ、と言われることが多いのは、そういうことなんじゃないかな。

そもそも論

私は、幸運にも、他人の「悪意」というものを、実感したことがありません。

他人から傷つけられたことはあれど、悪意を持ってそれをされたかと問われたら、そういう風に感じたことはないのです。

自分が傷ついたとしても、傷つく傷つかないというのは主観的なものなので、相手に「悪意」があったとしても、自分の受け取り方次第で、それは悪意になったりも、ならなかったりもする。

そういうものだと思っているので、単に、他人の悪意に私が気がついていないだけなのかもしれませんが。

そもそも、「悪意」って、あるのかな。

この世のいわゆる「悪」というものは、見て見ぬふりをされ、表現されなかった、人間の「闇」が現象化したものなんじゃないだろうか。

もともとは、カタチにもならないほどの微かな想いであったものが、寄り集まって、表現されたくて、認めてほしくて、カタチを成してしまう、といったような。

日々起こっている痛ましい事件や事故について、常々考えていることがあります。

ああいったものは、世の中の、表現されなかった微かな想いが寄り集まって、モンスター化してしまったものなんじゃないだろうか。

モンスターなんて言ったら、かわいそうだな。

もちろんそこには、私自身の表現されなかった微かな想いも入っているはず。

自然には、善悪や良し悪しなど、ありません。

でも、人間は、より「善」であろうとするが故に、「悪」らしきものから目を背け、表現することを避けます。

晴れる日もあれば、嵐の日もある。

もし、天候操作が可能で、晴れの日ばかりをつくったら、自然界に存在する、嵐にしか表現できないエネルギーは、どこへ行けば良いのだろう。

悪を表現してみる

話はちょっとズレますが、夫に、「ものすごいわっるーーーい顔してみて」と無茶振りしてみたところ、全力でやってみてはくれたのですが、悪い顔に震えあがるどころか、爆笑してしまいました。

試しに、私も鏡の前でやってみたのですが、想像以上に、悪い顔って難しいもんだなと思いました。

我ながら、ぶはっ、と笑いました。

他人が心底憎らしかったり、本当に心が苦しい時に、そんなこととてもやれる気分じゃないよ、と言われそうですが、今の自分は「悪」に違いないと考えている人がいたら、試しに鏡の前で、自分にできる精一杯の「極悪人の顔」をやってみてほしいです。

「悪」を、表現してみてほしいです。

そんなことで、案外気が済んでしまうような気がするのですが、そんな私は、甘いのでしょうか。

側面をなんと呼ぶ

「悪意」なんて、そもそもないんじゃないだろうか。

「悪」のように見えるものは、表現されることのなかった人間の側面たち、だと思ったら、私は、なんだかとてもスッキリしました。

「悪」のように見えるものも、「善」のように見えるものも、人間のひとつの側面として、対等であるはずです。

「悪」を愛せ、などと言いたいわけではありません。

どんな側面も、等しく、表現されることを許されていい。

だから私は、自分だけは、自分に自分のどんな感情をも、表現することを許そうと思っています。

それがそのまま、自分の目に映る世界となるから。

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