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贅沢なうろうろ時間

将来何になりたいの?

子供の頃よくこんな質問をされた。というか人間社会では子供に話しかける定型句といってもいい言葉なんじゃないだろうか。あるいは、聞かれなくても「何になろう?」と考える時期は必ず訪れる。
で、この年齢になって「何をして生きていこう?」は、再び私の宿題のようになった。頭の一部に垂れ幕のようにぶら下がっている。


仕事をしたいなぁ、とここのところずーっと考えている。したらいいじゃないか、というツッコミが入るの承知で、いや、生きるため(お金のため)の仕事じゃなくて生き甲斐としての仕事が、したいなぁなんて、贅沢を考えているわけです。ボランティアじゃなくて(これは多分かなりしてる)多少でもいいからお金の動くお仕事、したい。


なりたいものはなかったけど、やってみたいことは沢山あった。ありすぎて、でも周りの大人の顔色を窺うとなんとなく求められている回答がわかるから言葉にしたのは「期待されてる言葉」だった。

・・・いや、違うかな。考えることを諦めたのかな。子供のくせに打算と、みんなが言うそれいいね、という言葉に 考えないで出てきたものが正解って思ったのかな。

社会の中にどんな仕事があるかなんて知らなかった。もちろん今もそうだと思う。知らない仕事なんて夢に描けないものだ。昔の私は「どんなことでもできる」なんて、誰かのリップサービス的な、お為ごかしな言葉だと思っていたし、ゴールがなければ進めないと思っていた。


世界とか可能性とかを知らないときの「好きなこと」は、水分を含まない砂のように、手の中で握りしめても形に出来ない。形にしようとしてもさらさらと崩れていく。
そこに「お城を作りたいなら少し水を加えればいいんだよ」と教えてくれる人が身近にいるような幸運な人もいるんだろうけれど、人の話を聞かなかった子供の頃の私にはそんな存在すら気づけなかっただろうし。

でもようやく、好きなことを仕事にする、だけじゃないと腹に落ちた気がする。仕事をしていたら好きなことになった、も正解だし、好きな仕事じゃないけれど続けていられる、上手にこなせる、も正解だ。続けていたら仕事になった、も正解だし、自分のためにやっていたことが仕事になったもアリだ。できることから仕事を作る、だって大正解。どんなものでも、どんな道筋でもいい、仕事にしたいならすればいい。考えてみれば当たり前なんだけれど、自分の中ではできないこと=私の世界にはないこと、だったんだなぁと。

それを言葉として「私は仕事にたどり着く道筋を自分に1−2種類しか許してないし、他は私にはできない、他をできる人は幸運な人だと決めつけている」と理解したのは、先日高校の同級生たちに久しぶりに会ったからだ。
高校時代から接点のあった人、なかなか話す機会はなかったけれど存在は知っていた人、かなり初めまして、な人と色々だったけれど、みんな今の仕事にたどり着くまでは本当にさまざま、望んだわけじゃないものから気づいたら昔から好きな分野に関わることになった人まで色々だった。結構変わった高校だったので「変な人」の基礎?は共有している部分で、もちろんその後みんな違う方向に行くんだなぁとは思っていたけれど、実際こんなに違うんだ、と笑ってしまうほど。
そして多分それなりに文句も苦労もあるんだろうが、みんな楽しく働いているんだなと思った。いいな、そういうの。贅沢と知ってるけれど、人生に仕事を通しての(大きすぎない)起伏があるって、羨ましい。

じゃ、私は何をしようか。
そう思うと思考が止まってしまう。ほら、また道筋を一つか二つに絞っちゃってる。

とりあえず色んな人に会っていろんな話を聞こう。今までもやってたけれど、続けよう。そしてその間も日常をサボらず、さらにやりたいと思ったことをやっていくしかないんかな。


そんな感じで私のうろうろ時期は、まだまだ続くらしい。そのまま歳をとっていくこともかなりアリうるけど、まぁその時はその時で・・・・
本当に贅沢言ってるよな、私は。



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