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愚直に憧れる

3ヵ月連続投稿チャレンジ27日目。

私は自分をバカだと思っている。というか思ってきている。
『そんな自分イジメ止めなさいよ』と言われても、
気付いてしまったのだから仕方無い。
どんな評価を戴いても どんな経歴を認めて貰っても
自分では譲れない認識、このバカな自分から抜け出すため 
日々を生きているといっても良いかもしれない。

自分がよく分からなくなって来た時期、

まぁ「home maker」になって外界と接触が減った時期、というかな
幸せなんだけど自己価値観がフリーフォールのように落ちていって

私はなんなのだろう?

という迷宮に落ちた頃のこと
苦しくて抜け出す道を探してインターネットの世界に飛び込んだり
なにかを「できる」私になりたくてあれこれに手を出した。

いわゆる「承認欲求」に追われていたんだ。
仕方無い、人間って社会の中で生きその中で自分の価値を見出さないと
多分 苦しくて寂しくて死んでしまう・・・くらいの気持ちになる
そんな生き物だから。
承認欲求は悪いわけではなく、社会を構成するという生き物にとっては
ある意味死活問題だったわけだから。

ようやく「自分が持つもの」を認めることが出来はじめた。
というか「それしかできない」「でも秀でている」を
ようやく受け入れられるようになって来た、と言えるようになった。
半世紀生きて、やっと・・・笑 遅いなぁ。

で、私の経歴とか、やれることを聞いた人が
デキル人、と評価して下さるのは本当に有り難いのだが
それは私にとって通過してきた階段の踊り場みたいなもので
自分をバカだ、と思っている理由は 恥ずかしくて言えなかった。

愚直さ、というものを持ち合わせていないのだ。

私は評価して頂けることがあるとしたら
器用さにまかせてやったこと、という自覚がある。
もちろん、器用である というのは大事だし便利だし悪い事ではない。
でも器用でバカ、はいただけないのだ、私の中では。
器用で、そこに何かをただひたすらに続ける愚直さが加わった美を
私はもの凄く羨ましく美しく感じるし、
そこから見える景色を見に行ってみたい、と思う。

が、器用に(ある程度)なんでもこなす50年を生きてしまうと
どんなものにも 初心者 のときがあるという当たり前のことを
受け入れがたい自分に成っているコトに気付く。
自分に 初心者 の時期はもういらないと思っているのだ。
だからこそ バカだ と思っている。

初心者時期を越えるための
「評価されなくても続ける」という習慣を
身につけていない自分をバカだと思っている。
やってみる前に「初心者だと見られている」という思いこみが、
初心者に見えている自分の存在を許せない自分が、
続ける、という習慣から自分を遠ざけていることを知っている。
初心者である自分を恥ずかしく思う、ということも
愚直に続ける、を失敗する自分を恐れて 止めてしまう自分も
とことんバカだなぁ、と思うのだ。

愚直さ。愚かとも言えるほどのまっすぐさ。
それを他の角度から
「のめり込んでしまうこと」「ワクワクすること」
「好き!と思えること」 と表現するひともいる。

大事なコトだ。
そして私にはそれがない、と思ってきている。
だから バカだ と思っている。

・・・・と、ここまで書いたら自分が流石に可哀想になった。
いや、自分なりに頑張ってきたんだしさ。
一応、その度やってみよう、ってやってた経緯はあるからさ。
チャレンジを諦めたことはないんだから・・・
バカなりにやれることをやってきて、まだある程度辿りついてないという
そういうのが 私 なんだ。

今まで止めてしまったことを、
「しっかり続ける前に止めたんだから失敗じゃない」と思おうとしてた
だからその卑怯さがいやだったんだな、じぶんでも。
卑怯=失敗はしないけどバカ、と評価してきたのなら
考え方を変えてみよう。

【失敗してきた、だからこそ愚直さに向かってみよう】
【失敗、と思うのは、私だって愚直になれる、って信じてるからだ】

沢山失敗してきた。
でもそれは バカだからじゃない。
失敗したことに気付いたなら また1からはじめればいい。
自分の「愚直になる」努力が どこに到達するか
見えなくても進んでみればいいことだ。
進まない、を選ぶことこそが バカ の証なら
何度つまづいたり 弱気になったり 転んでも
続ける限りは失敗じゃない、と信じて進んだらいいんだよね。

そうしたらいつか
憧れる「愚直さを知った人」になれるかもしれない。

この3ヵ月チャレンジもまた
そのひとつではあるんだけどね。



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